:: 君が残る夏


 近隣の集落から近づくサイレンの音が、惨劇の終わりを告げていた。
「これじゃ、どっちが勝ったのかわからないな」
 誰かが一人ごちた瞬間、尾崎の脳裏に少年の影が過ぎった。
 自分を手助けし、最後には己も滅ぶと告げた少年。
 彼はどうなっただろう。
「夏野くん……」
 気付いた途端にいたたまれなくなった。咥えていた煙草を放り出し、彼は無意識に駆け出していた。

 夏野を探して、探した。
 結城を見つけ、夏野の行方を問いただしても、話しにならなかった。
「夏野くんは!?」
「夏野をいぢめる奴は、やっつけてやったぞ!」
「どこでだ!?」
 結城が指差す先。それが、地獄穴だと理解した瞬間、尾崎は叫んでいた。
「夏野くん!」

『おれも死ぬ』

 夏野がそう告げた時、自分は答えなかった。
 彼の覚悟に感服したのかもしれないし、屍鬼が滅ぶことに安堵したのかもしれない。
「ぐ……!」
 駆けながら尾崎は唇を噛み締めた。
 慣れない運動に肺が悲鳴を上げている。

 あの子は、いくつだった?

 大人びているからとて、なんだと言うのだ。あんな子供に、あんな言葉を吐かせて、一人で戦わせた。
 自分は一体何を考えていたのだろう。
 孤独だった己は、ひどく頼りなかったというのに。あの子に同じ思いをさせた。
 覚悟だって? 笑わせる。
 あの子は、まだ人生の入口に立ったばかりだというのに……!
「夏野くん!」
 地獄穴の暗闇に向けて、尾崎は叫んだ。
 立ち入り禁止のフェンスにしがみつき、登ろうとする。
 人が降りられる場所ではない。
 それでも、行こうとした。
 制止したのは、かすかな、しかし確かに聞こえた声だ。
「……若、先生……?」
 声は、暗闇の奥底から聞こえた。
「夏野くんか!?」
 返答には間があった。
「……あんた、なんで……」
「生きてるな、動くな。今行く」
 フェンスに足をかけた時、目の前を驚異的なスピードでよぎる影があった。そのまま、尾崎の横に辿り着く。
 着地はお世辞にも綺麗とは言えなかった。尾崎が振り向くと、叩きつけられるように地に転がった影、全身が血に塗れた夏野がそこにいた。
 呼吸をするのももどかしいのか、ぐったりと蹲っていた。
「夏野くん……」
 夏野はしばらく喘いでいた。尾崎の降りてきそうな気配に驚いて、反射的に登ったまではいいが、体のダメージは深刻だった。息をするのも、絶え絶えだ。
「……おれの最後を見届けに来たのか」
 用心深いことだと、自嘲にも似た笑みで夏野は言った。
 尾崎の目が見開く。
「あんたが五月蝿いから、ここまで、来た……けど」
 深く息を吐き、かすれた声で、夏野が告げた。
 すべきことを成した安堵が顔に表れていた。同時に、諦観の表情も。
「安心してくれ、もうすぐ、死……」
「違う!」
 尾崎は夏野の頬を掴んだ。血が、べっとりとその手に伝う。
「俺は、君を治しに来たんだ」
 今度は、夏野が驚く番だった。
「あんた、何言って……」
「俺は医者だ」
 夏野の頬を離さないまま、尾崎はその顔を額に当てた。
「医者で、医者なんだ……」

 誰も救えなかったこの夏に、せめて君だけは。

 尾崎の言葉を聞いた夏野は、視線を落とした。尾崎の、本来ならば純白の白衣が、血に濡れている。
 小刻みに震える尾崎の手の感触に、夏野は揺れた。
 ぽたぽたと、尾崎の涙が肌に触れる。
 それをしばらく見つめていた。

 やがて、夏野が口を開いた。
「おれは、人狼だよ」
「誰も襲わなかった」
 尾崎が答える。
「あんたを襲ったじゃないか」
「必要なことだったよ。おかげで助かった」
 手を離さない尾崎と、回復を続ける己の身体にいささか呆れながら、夏野は嘆息した。
 皮肉げな笑みで、尾崎を見る。
「屍鬼は皆殺しじゃなかったの?」
「あまりいじめてくれるな、夏野くん」
 ぐい、と尾崎が拳で涙を拭った。
「泣き虫なんだね、若先生?」
「大人をからかうんじゃない。傷を見せなさい」
 ゆっくりと夏野の頭に触れて、その感触に尾崎は顔をしかめた。
 修復されかかっているその傷は、決して浅いものではない。
「痛い思いをしたな」
 言いながら、傷口を見る。
「死ねば、痛くないと思ってた」
 夏野が言った。
「痛くても、死ねれば、関係ないって」
 尾崎は無言で手当てを始めた。簡単な消毒を施し、包帯を巻く。後は、医院に戻って検査をすれば大丈夫だろう。
 人狼という人ならざる生き物の回復力に、心のどこかで感謝すらしていた。
「残念だったな、生きてる」
 尾崎が夏野の肩を叩いた。
「俺は嬉しいぞ、夏野くん」
 にかりと笑うと、夏野はバツが悪そうに視線をそらした。