:: マーキング


 吸血は一度だけ、という約束だった。
 それは敏夫に対しての誓いでもあるし、自分に対しての戒めも含んでいた。
「ぐ……うっ」
 敏夫の呻く声がする。
 千鶴が訪れた夜の、敏夫の部屋だった。
 自身の腕に献血を施しながら、敏夫はベッドに入っている。
 吸血した者同士の命令が、敏夫の中で互いに木霊しているらしい。安眠など程遠い混乱の中に彼はいた。
「うあああ」
 ベッドの中で身悶える敏夫の手を、夏野が掴んだ。このままでは、輸血用の点滴すら抜きかねない。
「先生」
 声をかけても、返答はなかった。敏夫はきつく目を閉じ、呻いている。
「……先生」
 もう一度呼ぶ。うっすらと、敏夫の瞳が開いた。
「な、つの……くん」
「苦しい?」
 浅い呼吸に敏夫の胸がせわしなく上下している。
「だ、いじょうぶだ」
 敏夫は答えた。時折呻きながら、言葉を吐く。
「君も戦ってる……俺は、絶対に、負けない。う、ああ」
 苦しそうに身をよじる。そのはずみに、首筋が露になった。
 じっとりと汗ばんだ首筋に、千鶴がつけた吸血の跡が見える。
 夏野の胸に、不快感がよぎった。
 この感情はなんだ?
「先生」
 敏夫は答えない。目の前にいる夏野を認識しているかすらも怪しかった。

 一度だけ、という約束だった。
 けれど。

「な……」
 夏野が敏夫の身を寄せる。
 何をしようとしたのか察したのだろう、敏夫は制止しようとした。血を失った身体、鈍い思考がそれを邪魔する。
 夏野の胸に触れた敏夫の手を、夏野が自身の肩へとずらした。力なく夏野のシャツを掴む敏夫の首筋、そこに残された千鶴の跡に重ねるように、牙を立てる。
 優しく、甘く。ほんのわずかに、血を吸い上げる。
 刹那に敏夫の身体がびくりと揺れた。

 その吸血は、口付けに似ていた。

 差し込んだ牙を抜き、一息つく。それから、今度は唇と舌先で敏夫の肌に残った血を舐めた。
「ふ……」
 ぶるりと敏夫が身震いする。
 虚ろになった瞳を覗き込んで、夏野は言い聞かせた。
「逆らうんだ」

「やつらに何を言われようと従ってはいけない! 自分の意思を強く持て!」

 夏野の瞳が真っ直ぐに敏夫を捕らえた。張り詰めていた糸が切れたように、敏夫が意識を失う。
 額から流れた汗を、夏野が拭った。そのまま、指先についたそれをぺろりと舐める。

「あんたの身体に、他の奴の跡が残ってるなんて嫌だよ」

 それは自覚のない恋だった。