夜の街の雑踏の中で、それに気付いた。
夏野がふと足を止める。つられて、敏夫も立ち止まった。
「夏野くん?」
買い物の帰りである。村を離れ二人で暮らし始めて、そろそろ二年になろうという頃だった。
今しがた来た方向を、夏野が見やる。
「忘れ物した」
夏野が視線をそらさないまま、呟いた。
「じゃあ、戻るか」
言った敏夫を振り返ることなく、走り出す。
「おれ取りに行くから。先生、先に帰ってて」
「え、おい、夏野く……」
とまどう敏夫をよそに、夏野は人混みの中に消えた。
【独占欲】-side NATUNO-
屍鬼には、特徴がある。
日光に弱い、活動時間が限られている、眠気に抗えない。そして――
血の匂いが、違う。
夏野は駆けた。
この街にきてから、これまでにも数度、屍鬼を感じたことがある。接触することはなかった。大概は夏野が敵意を滲ませただけで、彼らは街を離れた。
人の多いこの街で、無用な争いを避けたのだ。
夏野もまた、出会うつもりはなかった。けれど、これは……。
覚えがある、この匂い。
あの村にいた……!
妙な焦燥感が夏野の胸を包んだ。
自分の友人である徹は死んだ。胸に杭を打たれて、その活動を停止させた。その亡骸の前で彼の父親が泣いているのを、遠くから見守った。
あれで自分の中にひとつの決着がついたような気がする。
なのに。
敏夫の傍にいた若御院、彼は生きている。
人を糧とする屍鬼になって。
「静信が……」
惨劇から数日後、尾崎医院の電話が鳴った時、夏野は手当てを受けるために敏夫の傍にいた。
寺の若御院は屍鬼と逃げた。その知らせだったのだと、敏夫は言った。どこにも二人を見つけられなかったと。
「……先生のトモダチ、だっけ」
あの二人は本当に馬が合うのだと、誰かが言ったのを聞いた覚えがある。
口元に煙草を咥えようとしていた敏夫の手が止まった。知らず溜息が漏れる。
「まあ、腐れ縁だな。もう終ったことだが」
繕うように言って、それから。敏夫はようやく煙草を吸い始めた。
室井静信。
村での面識はほとんどない。ただ、敏夫が話す思い出の傍らには、必ず彼がいた。
向こうも自分に気付いたらしい。裏通りの人気のない方向に進んでいる。先回りして、行く先を塞ぐ形で夏野は駆けた。
路地を曲がる。探し人は、目の前にいた。
「君は……!」
夏野が姿を現した瞬間、静信は絶句した。沙子がその後ろに隠れる。
「この街を出ろ」
夏野は手短に告げた。
この街には、あの人がいる。あの人に出会う前に、あの人が傷つく前に、さっさと去れ。
静信は無言で隣の沙子を見た。怯える沙子の手を優しく握る。
「わかった。そうしよう」
穏やかに告げて、背を向ける。立ち去ろうとする静信に、夏野は告げた。
「ここには若先生がいるんだ」
その名を聞いた静信の足が止まる。
「おれがあの人をもらうよ」
瞬間向けられた敵意も、夏野は受け流した。
言う資格も、怒る資格もないのだ、この男は。
あの人を、捨てたのだから。
「……敏夫は物じゃない」
「あんたに言われたくない」
夏野が冷徹に告げる。その瞳には、軽蔑にも似た色が宿っていた。
「そうだね」
静信はひとりごちた。
「君の言う通りだ。ぼくにその資格はない」
沙子と共に雑踏に紛れてゆく。二人の気配が完全に途絶えるまで、夏野はそこを動かなかった。
アパートに戻る頃には、すっかり夜が白んでいた。
鍵を持っていただろうかと夏野が考えた矢先に、ドアが開いた。
「夏野くん、どこに行ってたんだ」
別れた時と同じ格好のまま、敏夫が出てきた。今までずっと待っていたらしい。
「何って、忘れ物」
素っ気無く答えた夏野が室内に入る。敏夫がその後に続いた。
「君があんまり遅いから、今日行った店を全部回ってみたぞ。どこにもいなかったじゃないか!」
「わざわざ行ったの? 店に電話で聞けばいいのに」
「夏野くん!」
「考え事してた」
ふいと顔を背ける。怪訝そうな顔をした敏夫は、口を開いた。
「……誰かに、会ってたのか?」
「別に。なんでそう思うの」
「なんでって……」
明らかに普段と様子が違う。気付いていないとでも思っているのか。
「夏野くんのことなら、多少はわかるぞ」
これでもな、と敏夫が笑う。
夏野は敏夫を振り返った。
怒りすら滲んだ気配に、敏夫が怯む。
「若御院だったよ」
「え……」
彼の名を聞いた途端、敏夫に浮かんだ表情が夏野の逆鱗に触れた。
「話した。そんだけ!」
ぷいと背中を向ける。
その名を出すつもりすらなかったのに。出させたのは、敏夫だ。
「静信が……そうか」
敏夫は、それ以上を言わなかった。無意識に煙草を探しているのか、ポケットに手をやった。そういえば、夏野を待っている間に全部吸ってしまったのを思い出す。
「いかん、煙草が切れた」
敏夫が棚を見る。ストックがあるはずの場所には、空洞が広がっていた。
「……なんで聞かないの」
夏野が焦れた。
「何を聞くんだ」
「何があったのか、とか。あの人が今どうしてるか、とか」
「聞いても意味がないだろう。君が無事ならそれでいい」
敏夫の言葉に、くるりと夏野が振り返る。その顔に、今度こそ間違いなく怒りが満ちていた。敏夫の胸倉を掴んで、そのままソファに押したおす。
「なんだよ、あんな顔して。心配なら心配って言えばいいじゃないか!」
肘掛で頭を打ったのか、敏夫は顔を顰めた。後頭部を手で擦りながら、夏野を見上げる。覆いかぶさるように、己を見下ろす少年と目があった。
「こういう時ばっか大人ぶってムカツク」
いらつきを隠さないままに、夏野は告げた。
「夏野くん……?」
そのまま、敏夫に押し付けるように唇を重ねる。敏夫が身じろぐのにも構わずに、押さえ込んで深く貪る。
吐息すら逃がすつもりはなかった。
夏野の胸に湧き上がる感情の名は、独占欲に似ていた。