:: 独占欲-side TOSHIO-


 抵抗する手を、舌を、無理矢理に絡める。
 人がその力に抗えるはずもなく。
 気の済むまで口腔内を貪ると、ようやく夏野は敏夫を解放した。
 言葉も出せずに呼吸を繰り返す敏夫を見下げ、告げた言葉。
「煙草止めたら? 結構匂う」
 あれは、どういう意味だったろう。
 現在の勤務先である総合病院の屋上で、敏夫は煙草をふかしていた。抜けるような青空と容赦のない陽射しが、己の寝不足を自覚させる。同時に、不毛さも。
 仮にも一度は妻を持った身である。恋愛にそこまで疎いわけでもない。
 だから、気付いてしまった。
 あれが戯れであるはずがないと。
 思えばこれまでにも、夏野は何度もサインを送っていた。見逃してきたのは、否、気付かないふりをしていたのは、自分なのだ。
 答えを、出さねばならないのだろう。
 尤も、初めから出ているのだけれど。



【独占欲】 -side TOSHIO-



 この街に辿り着いてから、もうすぐ二年になる。長いようで短い歳月だった。それだけ惨劇の記憶は色濃く、忘れがたい。
 敏夫は、夏野がアルバイトを始めてもすぐに辞めてしまうことに気付いていた。敏夫以外の人間と親しくなる、その素振りも見せない。出来るだけ稀薄な人間関係を保つよう、心掛けているようだ。
 理由は、わかっている。
 彼は、あくまで自分を死人として扱っていた。
 だから、世界を拒絶している。
 人との係り、そのものを。
「先生、患者さんの容態が」
 看護士の声に、敏夫は振り向いた。
「ああ、わかった。今行く」
 返事をした途端、敏夫は唐突に理解した。
 敏夫には、外の世界がある。夏野には、それがない。


 自分は、彼を独占している――――


 夏野には、敏夫だけなのだ。
 彼の決意を覆してまでも、己が生かした命。
 そこに思い至った敏夫は、無言で吸っていた煙草を握り締めた。
 掌がちりつく感覚すら、自分に相応しい罰のように思えた。


 仕事を終え、アパートに早足で戻る。階段を登るのももどかしく、ドアを開けた。そのままの勢いでリビングのソファに座る夏野のもとへと向かう。
「夏野くん」
「なに?」
 手にしていた雑誌から目線をそらさないまま、夏野は答えた。
「大事な話がある。昨日のことだ」
 敏夫の言葉に、夏野は反応した。
 ぱたん、と音をさせるようにして、本を閉じる。
「なに?」
 立ち上がる夏野に大股に近づく。その肩に手を置き、触れるような口付けをした。
 すぐさま唇を離して、敏夫は告げた。努めて明るく笑ってみせる。
「今日、半日禁煙してみた! どうだ?」
「は?」
 途端に夏野の眉間に皺が寄る。敏夫は慌てて頭を振った。
「いや、君が言いたかったのは、そういうことじゃないよな。それはわかっている」
 夏野は目を見開いた。
「ちゃんと、わかってるから」
 だからこれはその返事なのだと、敏夫は告げた。夏野の顔が見られない。夏野の肩に手を置いたまま、敏夫は俯いた。下からの視線が刺さるような気がする。
「返事……?」
 夏野の問いに、敏夫は頷いた。
「そうだ」
 言いながら、敏夫は顔をそむけた。
「先生?」
「あまり見ないでくれるか」
 照れくさくてたまらない。
 消え入りそうな声で告げて、敏夫は頬を掻いた。
 思案した夏野が、小首を傾げる。
「先生も、おれが好きだってこと?」
 夏野が確認した。
「ああ、そうだ」
 敏夫が頷く。
「じゃあ、ちゃんと言ってよ」
 夏野が自身の胸の前で腕を組んだ。溜息混じりに聞いてやると言いたげな雰囲気だ。
「ちゃんと?」
「好きだって」
 夏野の言葉に、敏夫は目を丸くした。何を言うのか、この少年は。
 視線を彷徨わせて、それから告げる。
「す、好きだ」
「目をそらさないで。おれを見て言ってよ」
「え」
 敏夫が絶句した。
「夏野くん……君、若いな」
「まだ十七だからね」
 夏野が肩を竦める。
 おじさんにそれは酷だぞと告げながら、敏夫は溜息をついた。想いが通じる、それだけではいけないのかと内心嘆く。
 告白など、自分からしたことがあっただろうか。
 束の間、敏夫は過去を回想した。
 来る者を拒んだことはない。去る者を追うことも。静信に言わせれば「お前も大概非道いぞ、敏夫」ということだったが、自覚した試しはなかった
「う〜ん」
 ひとしきり唸った後、深く呼吸し、観念したように口を開く。
「好きだ、夏野くん」
「目を閉じた。やり直し」
「なっ」
 素早い指摘に、敏夫が夏野を見る。
 にやりと笑う夏野と眼が合った。
「君……!」
 からかっていたのか。
 敏夫は自分が赤面するのを自覚した。
「必死になって。先生、かわいい」
 くすくすと夏野が笑う。心底楽しそうだ。

 あ。

 敏夫は夏野の笑顔を初めて見た気がした。

 この子は、こんな顔して笑うのか。

「……もう言わないぞ」
 憮然とした顔で、敏夫が告げた。
「いいよ。おれが言うから」
 夏野は意に介さない。余裕ともとれる笑みに、敏夫はますます意固地になった。
「きっとずっと言わないぞ。一生だ!」
「おれがきっとずっと言うよ。あんたの分まで、一生ね」
 憎まれ口を叩くんじゃないと敏夫が煙草を取り出す。
「先生、禁煙は?」
「終った。君と」
 口付けるまでは我慢していたのだと言いかけて、言葉を飲み込む。
「おれと?」
「なんでもない。匂うから、あっち行きなさい」
「別にいいよ。あんたの匂いなら、なんでも」
 笑いながら夏野が敏夫の隣に座る。構わずに、敏夫は煙草をふかした。

◆◆◆


 彷徨い、辿り着いた街から離れる列車の中で、沙子は目を覚ました。
 鍵が閉じていないトランクを内側からそっと開け、そこに静信の姿を見つけて安堵する。静信は、トランクの隙間から覗いた沙子を抱き上げ、丁寧に座席に座らせた。
 また夜になっている。もういくつの夜を過ごしたのか、数えることすらやめてしまった。温かな陽射し、それも遠く曖昧な記憶に飲まれている。それでも、昨晩の記憶は新しかった。あの村にいた、人狼と化した少年。彼が剥き出しにした敵意が、今もまだ肌を纏うようだ。
「室井さん、あの人……」
「ああ」
 静信は頷いた。
「"食事"をしていないようだね。稀薄な気配だった」
 弱った身体で、それでも敵意を隠さない。そこに夏野の覚悟を見た気がした。
「……多分、敏夫が死んだら、自分も死ぬつもりなんだろう」
 流れる街灯の光に、静信が目を細めた。旧友の、太陽にも似た真っ直ぐな瞳を思い出す。あれは光。残酷なまでの光だった。
「敏夫も、相変わらずだ」
 追憶と共に呟く。静信は、旧友の居る街の明かりを見納めた。


 窓辺に腰掛けた夏野は、空を見上げた。
 傍らで、敏夫が寝ている。
 いつも、こうだ。
 睡眠など自分に必要ないと告げても、いいからと寝室に連れ込まれる。形だけでも寝なさい、脳の疲労が取れるから、と敏夫は譲らない。
「ほんとは一人で寝るのが怖いんじゃないの?」
 と揶揄したこともある。
「そうだと言ったらどうする」
「そんな三十路嫌だよ」
「言ったな」
 こつんと頭を小突かれた。

 本当は、知っている。
 夏野は視線を落とした。
 敏夫の手が、夏野の服を掴んで離さない。

 先生は、おれが消えるのが怖いんだ。

「大丈夫だよ、先生」
 夏野は囁いた。
「おれは、傍に居るから」
 安堵したかのように、敏夫の指先が緩む。それもいつものことだった。

 夏野がもう一度、夜空を見上げる。
 今宵は満月。
 満たされた欲の如く、欠けることのない月が浮かんでいた。