:: 発・情・期

「少しの間、病院に泊まってくれない? 離れたいんだ」
 夏野がそう告げた時、敏夫は深く聞かずに了承した。
 まあ、夏野君も年頃だしな。一人になりたい時もあるだろう。
 親心にも似た気持ちで、そう思ったのだ。

 それを後悔したのは、三日後のことだった。

 着替えの手持ちが少なくなったことに気付く。同時に、夏野は今何をしているだろうかと考えた。
「そろそろ良いかな?」
 顎に手をやる。無精髭がちくりと掌に触れた。

 アパートに戻り、鍵を開ける。普段ならば、出迎えるはずの夏野の気配がない。
「夏野くん?」
 呼びかけながら、大きな鞄を居間に置いた。広くはない室内の、どこを見渡しても夏野はいなかった。空気が全く動いていない。まるで、敏夫が不在になってから後、動くものがなかったかのようだ。
「留守か?」
 敏夫が寝室に足を踏み込む。と、そこに違和感を見つけた。
 ベッドの上に、等身大の塊がある。敏夫の気配を感じてか、それが少し動いた。
「う……」
 毛布にくるまって蹲る夏野がいた。敏夫が慌てて駆け寄る。
「夏野くん!? どうした!?」
「せ、んせ……?」
 もぞりと、夏野が毛布から顔を出した。
 顔色がひどく悪い。呼吸も浅い。
「具合が悪いのか? なぜ俺を呼ばなかった!」
 夏野は答えない。口を開くのも億劫そうだった。
 血か。
 敏夫は察した。
 人狼は、人より優れた五感と不死に近い身体を持つ。通常の食事でも持ちこたえられるが、体が欲するのはやはり血液だった。
 外場の村人は皆、生前の記憶を保ちつつも、血の欲求には抗えなかった。無論、拒絶することもあるのだろう。だが、かつてないほどの飢餓感が理性を凌駕する。本能にも似た凶悪な衝動に駆られ、人が堕ちて行く様を敏夫はこれまで嫌というほど見てきた。
 夏野は、その欲求を今まで捻じ伏せてきたのだ。
「いつからこうしてたんだ。まさかずっとか?」
「なんで、戻ってきたの?」
 低く、掠れた声だった。夏野の額に、じっとりと汗が滲んだ。
「先生」
 夏野が敏夫をベッドに引きずり込んだ。瞬く間に組み伏せ、下に敷く。馬乗りになる夏野に、敏夫は目を丸くした。
「夏野君?」
「足りない」
 夏野が呻いた。
「すごく欲しくて、たまらない。苦しいんだ」
 滅多に弱音を吐くことのない夏野の言葉に、敏夫は揺れた。
「夏野くん……」
「なんで戻ってきたの? おれ、先生を襲うよ?」
 反射的に夏野の腕を掴んでいた敏夫は、手を離した。身を投げ出すように、両手を広げる。
「いいぞ。俺の血でいいなら」
 それで君の飢えが治まるなら、構わない。そう敏夫は告げた。露になったうなじを見た夏野の喉がこくりと鳴る。
「違うよ」
「ん?」
「飢えてるけど、そっちじゃない。こっち」
 言いながら、夏野が敏夫の下肢に触れる。掠めるように触れる感触に、敏夫は驚愕した。
「な、何?」
「したい。すごく」
 言葉に熱が篭っている。そこに夏野の情欲が垣間見えた。
「夏野くん」
 苦しそうだ。
 人ならぬ身としての、衝動。それを常に押さえている夏野の精神に、敏夫は敬意すら抱いていた。
 その夏野が苦しんでいる。
 敏夫は、息を吐いた。
「……わかった。やろう」
 我ながら、色気のない誘い文句だと嘆息する。それでも、夏野の助けになりたかった。
「ダメだよ」
 夏野が呻いた。あんたはわかってないと忌々しげに吐き捨てる。
「一回や二回じゃ、やだ。四回、五回したって足りないと思う。おれが体力の限界まで先生を犯しても、足りないかもしれない。おれはいいよ、何度でも出来るし。でも、先生はもつの? 襤褸雑巾のようになって死ぬかもしれないよ。それでいいの?」
 まくし立てるように告げる。夏野の気迫に、敏夫は飲まれた。
「夏野くん」
「なんで戻ってきたんだよ、もう」
 くそ、と呟いて、夏野は敏夫から身を離した。イラつきが隠せない。
 衝動のままに手にかけぬよう、敏夫の匂いが染み付いた毛布にくるまって、ずっと耐えていたのに。
 本人が目の前にいるのでは、まるで話にならない。
 匂いに、存在に、目がくらむ。
 立ち上がった夏野は、息を吐いた。怒りの感情に蓋をするように、深呼吸する。
「……さっきの、忘れて」
 ぽつりと呟くように告げる。
「先生を抱く時は、おれの意志で抱くよ。こんな、盛りがついた獣みたいな形じゃなくて」
「夏野くん」
 敏夫は、夏野の手を取った。そのまま引き寄せ、抱き締める。
「あんた……っ、人の話、聞いて」
 怒ろうとする夏野を抱き寄せたまま、敏夫は言った。
「構わんよ」
 その言葉に、夏野の動きが止まる。
「君がしたいようにしてくれていい。俺は構わん」
 煙草が染み付いた敏夫の匂い。眩暈がするような情動に、夏野は歯を噛み締めた。おずおずと敏夫に触れかけた手を、耐えるように強く握り締める。
 触れれば、きっともう抗えない。
 きつく目を閉じる。それから、抱き返す代わりに体の力を抜いた。敏夫に身を預ける。
「先生、ずるい」
 そう言われたら、もう襲えない。夏野は呟いた。
「そうかな?」
「そうだよ」
「ん、そりゃすまん」
 なにがいけないのかわからないままに、敏夫が顎を掻いた。
「先生」
 夏野が呼ぶ。
「なにかな」
 敏夫が答えた。
「このままでいて」
 うとうとと、夏野がまどろむ。眠気を感じるなど、一体いつ以来だろう。
「ああ、わかった」
「先生」
「うん?」
「……好きだよ」
 呟くような告白に、敏夫は穏やかに笑った。
「俺もだ。夏野くん」


 今夜はこのまま、ずっと一緒にいようか。