蒸し暑い夜だった。
換気を兼ねて窓を開けるが、無風に近い。おかげで室内には煙草の煙が充満し、用意された酒は底を尽き掛けていた。
その只中に居る大人二人は、不毛な空間を気にする素振りを一切見せない。むしろ、馴染みきっている。
「禁煙なんて、そう簡単にできるわけないよな」
敏夫がぽつりと呟いた。言いながらも、すでに手には煙草が握られて、口からは煙が吐かれている。
「まあ、俺は無理だな。お前も」
定文が同意した。
「だよな」
「どうした、急に」
いや、と敏夫が言いよどむ。
「臭いんじゃないかと思って」
「誰が」
無言のまま、敏夫が煙草を見やる。それで、定文にはぴんと来た。
「あ、なるほどねー。お悩みなわけだ? 若先生」
「悩みってほどじゃないが、気になってな」
言いながら煙を吐く。
外場の惨劇から二年が経っていた。こうして時折会う村人は、片手で足りる。定文も、その一人だった。そして、敏夫の同居人について知っているのは、彼一人に限られる。
以前、やはり定文と酒を飲み交わした時だった。
終電も間近となって、敏夫は立ち上がった。したたかに飲んだせいで、足元がおぼつかない。
「どうした? トイレか?」
定文が問いかける。
「帰る」
そう言って、敏夫はうつろな瞳で壁時計を見た。
「お前が時間気にするのか? 珍しいな」
「心配してるだろうからな」
「誰が?」
誰がって、と敏夫は呟いた。そんなのは決まっている。
「夏野くんが」
「は?」
唖然とした定文を見て、慌てて口を押さえる。時すでに遅し、だ。
「夏野……って、あの工房の?」
互いに一瞬で酔いが覚めた。
「いや、なんでもない」
「おい、待てよお前」
逃げようとする敏夫の襟首を定文が掴んだ。
「工房の息子は行方不明じゃなかったのか? どういうことだ」
それから質問責めにあった。かつてのことを含めて、今の状況を定文に理解させるまで、かなりの時間を要した。
最終的に、定文は言ったのだ。
「まあ、お前の傍に居るならいい。工房の息子が欲求を抑えきれなくなったら、始末してくれるんだろ?」
「勿論だ」
彼に限ってそんなことはないけれど。と、内心呟く。
敏夫の回想を中断させたのは、定文の楽しげな声だった。
「じゃあ、お前んとこの狼がどれだけ有能か試してやろうぜ!」
「は?」
定文が敏夫の煙草を奪う。唖然としている最中に、口付けられた。
「ばっか、定文!」
そのまま、首筋へと唇を落す。Tシャツをめくって、腹、胸。合間にわざと音を立てるのは、ふざけているという証だった。そのくせ舌で舐めるのも忘れない。敏夫が定文の頭を掴んでも、どこ吹く風だ。
「おい、よせ。やめろって!」
仕上げに、匂いを移すかのように敏夫に抱きついて身体を擦り付けた。
「んー、こんなもんか?」
「定文!」
「こりゃー、楽しみだな、若先生?」
くっくっくと、心底面白そうに定文が笑う。
「おっ前、他人事だと思って……」
敏夫が絶句する。気持ち悪そうにTシャツを直すと、苦虫を噛み潰したような顔をした。
わかる。わかるだろうな。
二階建てのアパートの階段を登りながら、敏夫は思案した。
人狼の五感は人より優れている。特に嗅覚は、皮膚の下に流れる血液、その匂いの違いすら感じ取るほどだ。
定文の戯れの後、必死に煙草を吸い、不本意ながら香水まで購入したが、匂いを上塗りするだけだろう。
試しに自分の腕の匂いを嗅いでみたが、まるでわからない。
定文の悪戯に気付いたら、夏野はどうするだろう。
敏夫は考えた。
怒るだろうな、間違いなく、必ず。
ふう、と息を吐く。それは大変に恐ろしいことのような気がした。怒鳴られるなら、まだ良い。が、本当に怒った夏野はそうしないだろう。冷静に冷徹に、自分を追い詰めるに違いない。
この場合、油断した自分が悪いのだけれど。
「よし、帰ったらすぐ風呂だ!」
敏夫が自分に言い聞かせながら玄関のドアを開ける。そこに腕を組んだ夏野がいた。敏夫の心臓がどきりと鳴る。
「遅かったね」
「ああ、ちょっとな」
出来るだけ自然な動作で靴を脱ぐ。心臓よ落ち着け、と敏夫は念じた。
「いや、暑かった暑かった。汗だくだ。風呂に入ってくるよ」
言いながら、足早に夏野の横をすり抜けようとする。
途端に、Tシャツのすそをつかまれた。
「先生」
「な、なにかな」
ぎこちなく、敏夫が振り返る。
服を掴んだままの夏野は、やや間をおいてから敏夫を振り返った。その目が、静かに細められる。
「煙草より、あんたから他の男の匂いがするほうが嫌だからね?」
ざ、と冷水をかけられたような寒気が、敏夫の背を駆けた。
とっくにばれてる。しかも怒っている。
「……夏野くん」
「なに?」
「いや」
どう言ったものか。敏夫は思案した。
「その、なんと言うか……悪かった」
「なんで謝るの? おれに謝るようなことしたの?」
「いいや!」
敏夫は慌てて頭を振った。それだけは断じてないと宣言する。
「これは、定文がふざけて。あちこちキスしてきまくっただけだからな」
酒の席の話で、やましいことは何もないのだと弁明した。
敏夫の言葉に、夏野がぴくりと反応する。
「あちこち?」
「首とか、胸とか。おまけに身体まで擦り付けてきて。酔いが一気に醒めたよ。全くあいつは」
敏夫が嘆息する。
「ふうん」
頷いた夏野が、敏夫に歩み寄った。
許してもらえたかと、敏夫が安堵する。
「じゃあ、おれもいいよね」
「え」
つい、と夏野が敏夫のTシャツに指を滑らせた。腹から胸、首筋と遡るように撫で上げて、それから顎に至る。
「首と、胸? おれもまだ触ってないのに?」
「夏野く……」
「わかった」
足早に歩き始めた夏野が、敏夫のTシャツを引っ張る。
「先生、風呂に入りたいんだっけ? 手伝ってあげるよ」
「なっ、何言っ……」
有無を言わさぬ力で引かれ、敏夫はうろたえた。抵抗空しく引きずられる。
脱衣所に入った途端、壁に身を押し付けられた。即座に、Tシャツがめくりあげられる。
「ここも、ここも」
他の奴の匂いがすると言いながら、夏野が唇を這わせた。定文の跡を消すように舐めてゆく。ぞくぞくと、敏夫の背を快感が込み上げた。
「なっ、つの……くん、やめ……」
「その人の前でもそんな声したの?」
かり、とわざと歯を立てて夏野が肌に噛み付く。敏夫が思わず息を呑んだ。
「そんなわけ、ない……っ!」
あれは、あくまで悪戯の延長で。そう言う合間にも、夏野は容赦なく敏夫を責めた。制止しようとする敏夫の手から、力が抜けてゆく。
「君だから、だ」
吐息の合間に敏夫は告げた。
その言葉に、夏野の動きが止まる。
「お、俺が、こんな。男に触られて、喜ぶわけがないだろう」
涙目で抗議する敏夫を、夏野はまじまじと見つめた。
「へえ、喜んじゃうんだ?」
何かを企んだような笑みが、夏野に浮かぶ。しなやかな指先が、敏夫に触れた。
「もっと啼いてよ、先生」
※人狼に悪戯をする際には、ご注意を※