虫の音がする深夜だった。
尾崎医院にいる敏夫は、診療を終え、最後のカルテをしまったところだ。
気分転換に煙草を吸おうとテラスに向かい、もどかしくも火をつける。もう外に出るという頃になって、その気配に気付いた。
思う前に、言葉が口をつく。
「夏野くんかい?」
「……あんた、違ったらどうするんだよ」
むっとしながらも、夏野が姿を現した。喉に手をやり、けほりとむせる。敏夫が慌てて煙草を消した。
「なんだ、どうした?」
「辰巳が家に来た。首絞められて」
何度か咳払いしながら、夏野は告げた。
「治療は」
「必要ない」
「見せてみなさい」
「なんで?」
「なんでって」
敏夫が苛立つ。その目を真っ直ぐに見ながら、夏野は告げた。
「オレは起き上がりだよ?」
夏野の答えに、敏夫は言葉を失った。
「あんたも気をつけて。それだけ言いたかった」
用件は済んだと、夏野は敏夫に背を向けた。
その背に、声がかけられた。
「……すまない」
敏夫の声に、夏野の足が止まる。
「君を助けられなかった」
呻くような言葉に、夏野は答えた。
「オレも頼らなかった。仕方ないよ」
夏野が柱に手をかける。
そのまま、姿を消そうとした。
ふと、違和感に気付き、夏野が振り返る。俯いた敏夫の肩が震えているのがわかった。
零れる寸前で留められた涙が、敏夫の瞳に溢れている。
夏野は、じっと敏夫を見詰めた。
「先生」
この人は、泣けるんだ。
夏野は、そんなことをぼんやりと思った。
自分が最後に泣いたのはいつだったろう。
記憶を辿った夏野は、それがそう遠くない日であったことを思い出した。
暗く深い眠りから目覚め、自分の身体に起きた変化を悟った時。
自分が死の淵から覚醒し、人と異なる生き物になったと知った。それは、徹が最後まで夏野を裏切ったという証でもあった。
「徹ちゃん……」
握り締めたシーツに大粒の涙が落ちた。
あれは、違うのだ。
生前の徹の姿をし、よく似た行動をする。けれど、もう違う生き物だ。
徹を変えたのは、何か。夏野はよく知っていた。
込み上げる衝動のままに、泣いて、泣いて。
それから、夏野は呟いた。
「……許さない……!」
あれは、徹の形をしたあれは、徹ではない。
徹の記憶を持つ吸血鬼――屍鬼なのだ。
「オレは、屍鬼を許さない……!」
起き上がったあの日を最後に、夏野は感情を表に出すことはなくなった。
この涙は、きっと、温かい。
敏夫を見詰めながら、夏野はそう思った。
あの身体も、その内を流れる血も、きっと温かくて美味い。
イイニオイ
掠めた衝動に首を振る。
ぐい、と敏夫が拳で乱暴に涙を拭うと同時に背を向けた。きっと何度か瞬きをしているのだろう、上を向いたまま鼻を啜る小さな音がした。
「先生」
「みっともないとこ見せたな、すまん」
背を向けたまま、敏夫は告げた。
「……なんで泣いてんの?」
「なんでだろうな、わからん。いや」
敏夫が唇を噛み締める。
ゆっくりと夏野を振り返った。
「君を亡くした。それが惜しい」
その言葉に、夏野は目を見開いた。
今まで、誰にも言われなかった。
目覚めた時、母は消え、父は徐々に正気を失った。
徹の献花は己を慰めるためのものだと。
夏野の死を、純粋に悼む者はいなかったのだ。
「……先生」
自然と口の端が上がるのを、夏野は感じた。
涙以前に思い出せなかった。最後に笑ったのは、いつだろう?
「ありがと」
素直に言葉が口から出た。
大人びた夏野の少年らしい笑顔に、敏夫が驚いた。
思えば、このところ彼の表情らしい表情を見たことがなかった気がする。
「夏野くん……」
夏野の顔からすぐに笑みは消えた。
くるりと敏夫に背を向ける。そして、夏野は口を開いた。
「オレの気持ちはここに置いていく」
あんたが泣いてくれるなら、と夏野は言った。
「オレはまだ救われてる。多分、ね」
そう呟いて、床を蹴る。
今度こそ、夏野は敏夫の前から姿を消した。
「夏野くん!」
敏夫がテラスに身を乗り出した時には、夏野の姿はどこにもなかった。ただ、周囲の木がざわめく。
「……夏野くん」
敏夫は拳を握り締めた。
「俺は、絶対に屍鬼を……!」
密かな誓いは互いの胸に。
今は流すことのない涙が密約の証だった。