:: 秘密。【後編】


 静かな攻防が二ヶ月も続いた頃、敏夫の限界を悟った夏野はこう提案した。
「記者の人を家に呼んで。おれも話をするから」
「夏野くん」
 敏夫が咥えていた煙草を落す。まさか吸血をする気なのか。
「早まった真似はしないよ。ちゃんと話して納得させるから」
「だが」
 敏夫は言い募った。相手は大人だし、プロだ。本音を吐露させる為なら、夏野が傷つくようなことも口にするかもしれない。
「構わないよ」
 夏野は表情を崩さぬまま言った。
「おれは、先生から笑顔が消えるほうがやだね」
 せっかく笑うようになったのに。
 夏野の苛立ちは敏夫の理解を越えていた。ただ、不機嫌なのだと、それだけが伝わる。
「何言ってる。俺なら笑えるぞ、ほら」
 敏夫が頬を引き伸ばしてみせる。無理に笑おうとする敏夫を、夏野が冷徹に見据えた。
「別に夏野くんが何かする必要はないだろ。ほら、俺が医者を辞めるとか。で、ここも引き払う。誰も知らない場所に行こう。な、これでどうだ?」
 医師会に所属していなければ、素性をくらますのも難しくはないはずだ。夏野一人を養うくらい、どうにかなるだろう。
 そう告げる敏夫を見る夏野の視線が、さらに厳しくなった。
「あんた、喧嘩売ってるの?」
「……いや、わかった」
 夏野の提案を、敏夫は渋々ながらも受けた。

 そして、翌日。
「やあ、ご自宅での取材許可をいただけて嬉しいですよ。しかも、今日は同居人の方も一緒だ」
 浮かれた様子で記者はやってきた。敏夫が観念したと思ったのだろう。
 事実、状態は白旗に近い。打開策を講じるとなれば、逃げの一手だ。それを敏夫が好まないことも、夏野は十分に承知していた。
 この人、負けず嫌いだからな。
 あれもこれもなんて無理だと外場で学ばなかったのかと思わないでもない。
 しかし、敏夫が医者を辞めるという選択肢は、夏野としても除外したかった。
 これ以上、互いに何も失わない。そのために、ここにいるのだ。
「で、今日はなんだ」
「いつもと同じです。外場で何があったか。あの大火事はご存知ですよね」
「ご存知も何もあんたが連日言いに来たろうが」
 敏夫がうんざりした様子で煙草を吸う。
「だが、俺達は関係ない。何も話すつもりはない」
 こんな不毛な問答を、毎日続けていたのだろう。夏野にもわかるほどに、双方の間に緊張感が走っていた。
「ですが、尾崎さんは何かを隠してる。これは記者の勘ですがね」
 記者がペンを抜く。切り札を出す気だ。
「失礼ながら、先生。奥様もお母様も行方不明ですよね? 大量に見つかった焼死体に混じってる公算が高い。それでも関係がないと?」
 敏夫が気色ばんだ。
 この男は、他の村人にもこんな質問をしているのか―――!
 拳を握り締めたまま立ち上がろうとする、その時だった。敏夫よりも早く、夏野が音もなく立ち上がった。
「無理だよ、先生」
 感情を込めない淡々とした声で言う。
「この人に隠し通すなんて」
 敏夫は目を見開いた。
 吸血を、する気なのか。
「夏野くん!」
 絶対に止めなければ。
 腰を浮かしかけた敏夫を、夏野は振り向いた。そのまま、敏夫の顎を掬う。
「え……」
 向かうなら記者のはず。
 夏野の行動が読めぬまま、敏夫は硬直した。その隙に、唇を重ねられる。
「ふっ……う?!」
 疑問をぶつけようとした舌を絡ませられ、肩を押されてそのまま椅子に座らせられる。抗議をしようにも、言葉にならない。くぐもった声が漏れる度、敏夫の息が上がった。
 夏野の腕を握り締めていた敏夫の手が緩む頃、夏野はようやく唇を離した。自分の口の端についた滴を、指先でそっと拭う。
 それから、夏野は記者を見た。
「おれ達の秘密は、この関係」
「……は?」
 硬直していた記者の目が瞬いた。
「あんたは勘違いしてるけど、おれと先生は火事が起きる前には外場を離れたんだ。理由は、これ」
 夏野は敏夫を指差した。椅子に崩れ落ちたような格好の敏夫は、手の甲で乱暴に涎を拭いながらも、まだ呼吸を乱していた。
「先生とおれの関係が奥さんや大奥さんにバレたんだ。だから、逃げた。おれの親も相当怒っていたしね。当然、以降連絡は取ってない。外場の火事は新聞に載ってたから知ってるけど、もう関係ないね。おれには、この人だけがいればいいから」
 すらすらと詭弁を述べる夏野を、記者は信じられない面持ちで見詰めた。恐らく自分も同じ顔をしているだろうと敏夫は思った。
「え、と……」
 記者が手にしていたペンで頭をこする。
 最悪なことに、辻褄だけは合っていた。関係者は皆行方知れずか口をつぐんでいる。おまけに、これまで事件だけに焦点を当ててきた。事件直前に村を離れた人間がいるかと問いただしたこともなかったのだ。
 仮に問うたところで、誰も答えやしないだろうが。
「事件の時、外場にはいなかった……と?」
「先生が変に誤魔化そうとするから、ややこしくなったんだ」
 夏野が大袈裟に嘆息する。
「じゃあ、君も事件前は外場にいたんだよね。あの大火事。君は、お父さんやお母さんが気にならないの?」
「!」
 反応しかける敏夫を、夏野が手で制す。
「それが残酷な質問だって思わないの? ここでおれが泣けば満足するとか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあ、どういうわけ? 聞く必要のあることだとは思えないな」
 夏野が畳み掛ける。
「言っておくけど、おれは覚悟してるよ。この人の他は全部、あそこに置いてきたんだ。その後のことまでなんて、知らない」
「いや……すまない。悪かった」
 記者が言いよどんだ。
 言葉を生業とする人間に舌戦で勝つとは。さすが夏野くん。
 敏夫は驚きと共に感心した。
「他に質問は?」
 場の主導権まで、いつの間にか夏野に移っている。
 しばらく視線を彷徨わせた記者は、手帳を閉じた。事実上の敗北宣言だ。
「……ないです。今日は、お邪魔しました」

 部屋を出る記者を見送ってから、夏野はドアを閉めた。
 ふう、と気だるげな息を吐く。
 それから、室内を振り返ると同時に、敏夫に抱き締められた。
「ちょ、なに……」
「やったな、夏野くん!」
 顔中に歓喜を滲ませて敏夫は言った。笑顔がまるで少年のようだ。
 しばらく敏夫の好きにさせた後、夏野は告げた。
「……なんとかするって言ったの誰だっけ。人を子供呼ばわりしたのは」
「う」
 それを言われると弱い、と敏夫は唇を尖らせた。
「おまけに、あんた、おれのこと疑っただろ」
「すまなかった」
 素直に敏夫が詫びる。ふん、と夏野が小鼻を鳴らした。
「あんたこういうの向いてないんだよ」
 返す言葉がない。敏夫はうなだれた。
「で? いつまでこうしてんの?」
 抱き締めたままの敏夫の腕を、夏野が邪魔そうに内側から離しにかかる。生憎、しっかりと回された腕は簡単に緩みはしなかった。
「いやー、嬉しくてな」
「なにが」
 イラついたように言う夏野をもう一度抱き締める。
「君がいなくなるんじゃないかと気が気じゃなくて。だから」
 嬉しかった、ともう一度告げた。
「……なにそれ」
 不満げに視線を伏せながら、夏野が俯く。敏夫の袖を小さく掴んだ。



 記者に告げた言葉の中に、真実も混ぜていた。相手もプロだ。偽りだけでは気付かれるだろうと、そう思って。

『おれには、この人だけがいればいいから』

 あれが紛れもない本音なのは、夏野だけの秘密だった。