:: レシピ


◆敏夫のレシピ

 冬の朝は好きだ。張り詰めるような寒さが緊張感に似ている。
 ベッドから起きた敏夫は伸びをした。肩をぐるりと回すと骨が鳴る。
「よし、作るか」
 ひとりごちると、台所に向かった。
 ガスコンロの上に鍋を置き、まな板を取り出す。冷蔵庫を開けると、野菜を次々に取り出した。途中、人参が転げ落ちそうになり、咄嗟に手を伸ばした。
 まだこの狭い台所に慣れていない。そう、身体から訴えられた気がした。
 落さなかったことに小さく安堵の息を吐き、敏夫は包丁を取り出した。
 軽快なリズムと共に野菜を刻む。
 くつくつと鍋の湯が煮立つと、それを確かめることもなく次々に刻んだ野菜を投げ入れた。
 白菜、椎茸、人参、舞茸……冷蔵庫に詰まっているものならばつまりなんでも良いのだと気付いたのは、外場を離れていた学生の時だと思う。そう言うと母は眉を潜めたが、それでもレシピは教えてくれた。
 豚肉、鶏肉を入れ、それからホウレン草を刻む。
 醤油と酒を適当に回しいれると、優しげな香りが辺りを包んだ。
「いい匂い。何作ってるの?」
 カーディガンを羽織った夏野が、姿を現した。興味深げに鍋を覗き込む。
「雑煮だ。丁度いい、餅を焼いてくれるか。夏野くん」
「わかった」
 頷いた夏野が、オーブントースターに向かう。餅の袋を手に取り、敏夫を振り返った。
「先生、いくつ?」
「そうだなあ」
 敏夫は鍋を回しながら思案した。中で輪切りにされた人参がくるくると踊っているのが見える。尾崎の家で出された雑煮には、花形の人参が入っていた。
 それを当たり前に食べていた。
 感謝など、一度もしたことはなかった。
「……よっつかな」
「よっつ?」
 聞いた夏野の手が止まる。
「入る?」
「ああ、入るぞ」
 夏野が不思議そうな顔で小首を傾げる。それで、敏夫は思い至った。
「俺の家はどんぶりだった」
「雑煮が? すごいね」
 感心したように告げた夏野が、オーブントースターに餅を入れる。
「うちはお椀だったな。御節の締めの一品みたいに」
「そうか」
 ぽつぽつと、言葉を選びながら口を開く。薄氷を踏むような会話だ。踏み抜けば、そこにある傷に溺れることになる。
 そういえば、夏野が家のことを話すのは初めてだと、敏夫は気付いた。
 外場の惨劇から、まだ二月と経っていない。今日は、初めて迎える正月だった。浮かれているテレビも、街並みにも出来る限り背を向けてきた。雑煮を作ろうとしたのは、単なる敏夫の習慣だ。
 外場を離れ、この街に来た時、街はすでにクリスマスムード一色だった。あちこちから流れるクリスマスソングも、美しく彩られたイルミネーションも、全てが遠かったのを覚えている。必要なものは買わねばと夏野と買出しに出かけた時、夏野が敏夫の服を小さくつまんだ。自分を置いて淡々と紡がれている日常に恐怖したのだと、すぐに気付いた。夏野の手を取り、引っ張るように大股で歩き、結局何も買わずに帰ってきた。あの時、自分はなんと言ったろう。
 確か互いに謝った気がする。
 何に対して、かはわからない。「生かしたこと」「生きていること」かもしれない。
 それでもそこに在る以上は、日々をこなさねばならないのだ。
「先生?」
 夏野の声で敏夫は我に返った。
「餅、焼けるけどどうする?」
「あ、ああ」
 敏夫は慌てて小鍋に水を入れた。コンロに置き、火を付ける。
「焼けたらここに入れてくれるか?」
「わかった。焦げは? あったほうがいい?」
「細かいな、夏野くん」
 うちは白味噌だったから、焦がさないほうが美味しかったんだと夏野は言った。その唇の輪郭がかすかに引き結ばれたことに、敏夫は気付かなかった。
「俺はちょっと焦げたぐらいが好きだな」
「わかった」
「あ!」
 夏野が頷くのにあわせて、敏夫が慌てて冷蔵庫を開けた。
「いかん、一番大事なものを入れ忘れるとこだった」
「まだ入れるの?」
 結構いろんなもの入ってるよね、と夏野が呆れたように言う。
「そうだ。大事だぞ、蛤」
 水で洗った蛤を、敏夫が鍋に入れる。磯の香りを含んだ湯気が、あたりに広がった。
「……おいしそう」
「だろ?」
 蛤の口が開いたのを見て、火を止める。
「あと、これな」
 フライパンに入れてあったブリの照り煮を夏野に見せる。と、夏野の眉間に皺が寄った。
「雑煮、だよね?」
「そうだ」
 これを上に乗せるんだと言いながら、敏夫は鍋をどかしてフライパンに火を付けた。醤油ベースの煮汁につかった鰤は艶やかな飴色をしていた。
「朝煮てもいいんだけどな。一晩漬けてあったほうが味が染みててうまいんだ」
「あんた濃い味好きだもんね」
 夏野が呆れたように嘆息する。
 夏野の家の雑煮は、白味噌に丸もちがひとつ浮かぶだけのシンプルなものだった。上品な白味噌の味わいが、胃に優しかった記憶がある。
 母が作った御節。和洋折衷のそれを、もう食べることはないのだ。
 ともすれば淋しさが胸を掴みそうになる。振り切るように、夏野は小鍋に餅を放り込んだ。
「二つだけでいいのか? 夏野くん」
「鰤が乗るって知ってたら、ひとつでよかったよ」
 小鍋からどんぶりに餅を入れながら、敏夫が言う。夏野は静かに嘆息した。
「育ち盛りだろう」
「あんた、自分が大食いだって自覚ないだろ?」
「よく食べなさ過ぎるとは言われたが」
「食べたり食べなかったりの差が激しいんだよ。煙草止めたら太るね。絶対」
 ぷいと夏野がそっぽを向く。敏夫が苦笑した。
「なに?」
 からかわれたような気がして、夏野が咎める。
「いや」
 敏夫が笑いを噛み殺した。夏野の年相応の反応が嬉しかったのだとは告げなかった。

「……おいしい」
 雑煮を一口食べた夏野の感想が、それだった。
「豚肉と鶏肉が一緒に入ってるってどうなのって思ってたんだけど、これおいしいね。蛤がいい仕事してる」
「だろ?」
 夏野から好評を得たことに安堵した敏夫が、雑煮に口をつける。これが好みなのだと、刻んだ芹を大量に乗せていた。
「む」
 芹の味が薄い、と敏夫は思った。
 外場では、いつでも山から採りたての芹を調達できた。街のスーパーで買った芹は水っぽくて味が抜けている気がする。
 味が違うなという言葉を、敏夫は飲み込んだ。
 言えば、外場のことに触れる。それはなるべく避けたいと、心のどこかで思ったのだ。
「なに? 味でも違った?」
 敏夫が捨てた言葉を、夏野が拾う。容赦のない鋭さに、餅を口にしたまま敏夫は夏野を見た。
「ああ」
 正直に頷く。
「学生の時にはよく作ったんだ。雑煮のためだけに帰るのなら、自分で作って勉強がしたいと、要は全く帰りたくないだけだったんだが。これだけは食べないと、正月が来た気がしなくてな」
「へえ」
 二人はしばらく無言で雑煮を食べた。やがて、夏野がぱちりと箸を置く。
「……俺、料理覚えるよ」
 呟くような言葉に、敏夫は顔を上げた。
「生きているなら、何か食うなら、覚えなきゃ」
「……夏野くん」
 そうだな、と敏夫が微笑んだ。
「これ食ったら、一緒に料理本買いに行くか?」
 敏夫の言葉に、夏野が頷く。


 凍てつくような風の中に、新しい陽が昇る。
 しんと冷えたその空気に負けぬよう身支度を整えて、二人はドアを開けた。