家、というのは奇妙なものだ。自分と同じ空間に他人がいて、それを許容する。ほんの一時ベッドを共にするのならともかく、己には生涯縁のないことだろうとセレンは思っていた。第一、家を憩う場所とも思えない。
それが。
「あはは! 見ましたカ、今の! セレン!」
バラエティ番組を見たアレクが笑いながら膝を叩く。目尻の涙を拭ってはクッションを抱き締めている。
「にゃー!」
子猫が答えるように鳴いた。
今ではまごうことなき赤の他人と猫まで共に暮らしているのだから、人とはわからないものだ。
セレンがわずかに漏らしたため息を、アレクはセレンなりに楽しんでいるのだと誤解した。嬉しそうにポップコーンをセレンに差し出す。瞬間眉を顰めたセレンは、それでも指を伸ばした。
時折、アレクの部屋から呻き声が聞こえる。耳を澄ます間でもなく、うなされているのだとわかる。アリゾランテに拉致された時のことを夢見ている時もあれば、己が屠った人間に責められている時も、あるいは何も知らぬはずの家族の視線にさいなまれている時もあった。
かすかな物音にも目を覚ますセレンは、うなされるアレクの声に嫌でも覚醒した。目を開けて、ああ、うなされているのかと思う。起こすべきかと迷ったことはない。彼の部屋に立ち入る気すらなかった。
ただ、じっとその声を聞いている。
人が、そこに、いる。
それは不思議な感覚だった。
アレクと初めて会ったのは、もう何年前になるだろう。英雄が殺人を目撃されたと言って連れてきた青年。それがアレクだった。組織に協力させることで生き延びさせられるだろうかと呟いた英雄に、確か自分は「どうだろうな」と微笑した筈だ。腹のうちでは難しいだろうと思っていた。己を見るアレクの目を見るまでは。
恐怖に塗り籠められていると思われた瞳には、非難と怒りが溢れていた。
面白い、と思ったのを覚えている。もう組織の中に自分をそんな目で見る人間はいなかった。汚物を見るように、蔑むように、アレクはセレンを見た。己と決して交わることのない場所にいる人間、そこに墜ちて来た気分はどうだ。
あの瞬間、口の端に上った笑みの名を、なんと言うのだろう。
組織の仕事に手を染めながらも、変わるまいとするアレクを、セレンは見ていた。己とコンビを組まされたことで、組織内でいらぬ恨みを買っていたこともある。ダルジュならば「てめーのせいで囲まれたぞ! どうしてくれんだ!」とセレンに怒鳴り込んでくるところだが、アレクはセレンに何かを告げることはなかった。頬の殴打の痕にセレンが気づいても、話しかけるなと言わんばかりに目をそらす。雰囲気は剣呑、孕まれる棘のような殺気と怒気。それがいつでも心地良かった。
かすかな呻き声にセレンは目を覚ました。
またアレクがうなされている。
(私にはない感情だ)
ひどく冷静にそう思い、また己の罪にうなされるのがアレクらしいと感じた。
あれは、そういう人間だから。
壁にそっと手を伸ばす。
らしくなく、触れてみたいと思う。
うなされるアレクを前にするといつもこうだ。そのくせ絶対不可侵の神域のように、踏み出せはしない。
「……重症だな」
自嘲にも似た笑みを浮かべて、セレンが嘆息する。
戦いの中ならば触れられる。日常の何気ない仕草の中でも。
けれどこんな夜に触れれば、指先から己の心中が溶け出るような気がした。それが何か、自分にもわからないけれど。
アレクの声に導かれるように、指先を広げる。
ひんやりと冷たい壁が、二人の間にあった。
【sick 〜触れたいと願う、病。・完】