まぜまぜダーリン

 黒く乾いた大地はひび割れ、空は紅く染まっている。
 獣の唸り声にも似た風の音は、聞きなれたものだった。
 血の匂いも、呻き声も。
 時折、剣の折れる音、魔獣の爪とかちあう音が響く。
 懐かしくも変わり果てた故郷だった。
「こりゃあまた」
 呼び出された地をしげしげと眺め、影虎は頭を掻いた。
「さっきまで、あんたの娘んとこにおったで」
 召喚した女は、振り向こうともしない。純白のワンピースと長い茶色の髪が、生臭い風にたなびいている。足は、以前影虎が召喚された時と同じく、裸足のままだった。白い皮膚が、土と血にまみれている。
 女はただ、眼前の己の敵を見つめていた。
 地底を這うような唸り声。巨大な獣の影は漆黒で、女を睨みつける目だけが紅く光っている。
 召喚された剣士達の攻撃も、その分厚い皮膚にはなんの痛痒も与えていないようだった。
「柊子は源次郎似だな。あいつも元気だった」
 返事のないことなど気にしない、というような影虎の語りに、女の影が一瞬だけ揺らぐ。
 柊子の名前に反応したようだ。
「そう……ですか」
 トーコ・ナカガワは、その一言だけを噛み締めるように呟いた。


召喚8:「藤ノ木のななしさん」


「あああああああっ!」
 中川家の朝は、柊子の絶叫から始まった。
 手の中の時計を凝視する。
 八時十五分。何度見ても、秒針は淡々と前に進むばかりで巻き戻る気配がない。
「寝坊しちゃった! どどどうしよ」
 朝練はとっくに終わっている。それどころか、朝のホームルームすら終了間近だった。柊子がうろたえながらパジャマを脱ぎ捨て制服を着始める。
「なななんでおとーさん起こしてくれなかったんだろ」
 寝癖全開のショートヘアにブラシをしながら、柊子はひとりごちた。
「疲れているのだろう、そっとしておいてやれとのことでした」
 淡々と答える声に、柊子の動きが止まる。対面していた鏡台からドアへぎこちなく首をふると、半開きのドアの向こうにイナクタプトが控えていた。いつものように廊下の床に片膝をつき、座っている。
「な……」
 柊子の唇が震える。
 なんでドアが開いているのか。
 なぜそこにいるのか。(知っているけど)
 なにを言っているのか。
 その他もろもろがこめられた「な」だった。
 それより何より、今の柊子自身の格好が褒められたものではなかった。片袖だけ通したブラウスは半身がはだけ、思い切りブラが覗いている。今日着ているのはお気に入りの柄だけど、この際そういう問題ではない。スカートはチャックを半端にあげただけでホックをまだ留めていないし、髪だってぼさぼさのままだ。
 イナクタプトからすれば、夜中にドアを開けたまま柊子が寝て、朝起きたと思ったら勝手に脱ぎ始めたのでとりあえず下を向いていたわけだが。
 硬直する柊子の気配を察し、イナクタプトは顔をあげた。
「柊子?」
「やだ見ないですけべー!」
 柊子が叫ぶと同時にイナクタプトの顔面にクッションが当たる。間髪入れずに、ドアが乱暴に閉められた。
「も、最悪……」
 呟いた柊子が鼻をすすりあげる。
 ある意味、中川家のいつもの光景だった。

 悪いことは続くもの、と言ったのは誰だったか。柊子には思い出せなかった。
 第一、今はそれどころではない。
 学校に遅刻すると家を飛び出して二時間余り。普段なら十五分とかからずに行けるはずの学校に、なぜかまだ辿りつけてはいないのだ。
 理由は、とてもはっきりしている。
 通学路の公園に、藤棚がある。そこから公園のフェンスにまで絡み付いている蔓に、花が咲いていた。
「あ、咲いたんだ」
 思わず立ち止まった柊子に、笑みがこぼれる。朝露を花弁で受けた藤に指先で触れた、その時だ。
「夏だからな」
 凛と響く声に振り向いた。
 いつの間にそこにいたのだろう、男が一人立っていた。整った顔立ちに、すらりとした体躯。淡い色をした長い髪は、藤をあしらった装身具で束ねられていた。毛先が風で揺れている。身に纏っているのが時代錯誤な戦国衣装(陣羽織とかいうやつだ。教科書に載っていた)でなければ、何一つ違和感はなかっただろう。
 だが。
「お。驚かんとは」
 男が感心したように柊子を見る。
 柊子は黙って男を見つめていた。
 今まで、様々なタイプの異性を召喚してきた経験が叫んでいる。
 この人は、違う、と。
 まかり間違っても現代人ではない。かといって、召喚相手でもない。現に柊子はかきまぜ棒を手にしていないのだ。
 でも、もしかしたら――
 そんなものなくても、呼べてしまうんだろうか。
「イナク……」
 イナクタプトを呼ぼうとして、気づく。朝のドア騒ぎで気が立っていた柊子は、イナクタプトの付き添いを許さなかった。今頃、彼は律儀に罰としての玄関掃除をこなしていることだろう。
 こんな時に……!
 叫びたくなった。
 柊子の変化に、男の眉がわずかにあがる。
 逃げなければ。
 柊子の足がわずかに引かれた。間髪入れずに男が衣の裾を振る。
 その瞬間、空間が歪んだ。突如として現れた闇に、柊子の体が呑まれる。

 男の衣は、藤の香りがした。

 かくして柊子はその日、学校に辿り着けない羽目になったのだ。
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