潮騒
その人とはお店で知り合った。
銀座の高級バー。接待で連れられてきたらしいその人は、どこまでもじじいでちょっと品がいいだけの人だった。白髪を丁寧に撫で付けて、仕立ての良いスーツを着ている。
お酒があまり飲めないからとお水ばかりを飲んで、自分が話すよりはあたしの話を聞きたがった。
連れてきたやつは店の選択を間違えたことにも気づかずにその人はどこかの会社の名誉会長だとか言っていた。
お前の連れ楽しんでないよと思ったがあたしもプロだから顔にも口にも出さなかった。
その人は淡々と話した。喧騒にかき消されてしまうような声だったのに不思議とあたしには届いていた。
読んだ文学の本の話。あたしには少し難しすぎた。
「ねえ、後で呑みなおさない?」
あたしからお客に提案するなんてものすごく珍しいことだった。
その人は構わないですよと穏やかに言った。
店をひいてからあたしはその人を連れて近くの秋田料理店に行った。
朴訥とした雰囲気のお店で、木造。こういう人にはこういうところがいいのだ。
「いいお店でしょ?」
あたしが得意そうにいうとその人はにっこりと微笑んだ。
お酒は飲めないのだと固辞されて、仕方なしにふたりでお茶を飲んだ。
「お仕事で呑むんですか。大変ですね。僕は下戸だからどうしようもないなあ」
その人は頭をがりがり掻いた。
「あたしは強いのよ。羨ましいでしょう」
「うんうん、羨ましい。一度で良いから浴びるほどお酒を飲んでみたかったなあ」
「一度やったらこりるわよ」
自分の父親より年上の人と、こんなに長時間しかもプライベートで話すのは初めてだったのに時間が経つのが早かった。
とりとめのない会話。読んだ本の話、実家の風習、お雑煮の中身とか。最近のドラマの話も出来るのにはびっくりした。
気づけば朝が来ていた。お酒も飲まずお茶だけでよくもまあここまで。
帰る段になってその人はあたしを送ると言い出した。
「夜道に女性の一人歩きは危険ですよ」
「もう朝よ?」
言われてその人は初めて朝が来たのを知ったようだった。
「ああ、本当だ」
「ね、だから大丈夫」
くるりと背をむけて帰ろうとするあたしに後ろから声がかかった。
「楽しかったです。ありがとう」
一度だけ振り向いて飛びっきりの笑顔で手を振る。
あたしもなんだか楽しかった。
それからその人が店に来ることはなかった。
会う約束をしたわけじゃないし、あたしも気にしてなかった。
お店に行って、仕事をして、家に帰ってコンビニ弁当を食べるのがあたしの日課。
本屋さんなんてここ何年か行っていなかった。
通勤途中にはあるけれど、立ち寄った事はない。本を読むといったら、コンビニでなにかを買うついでに女性用のファッション雑誌を見るくらいだ。
店頭に置かれていたその本は、あの人が良いと熱心に褒めていた本だった。
なにげなく手にとってぱらりとめくる。文字ばっかりだ。
あたしはしかめっつらをしてるに違いない。どこが面白いのこんなの。
しかも高い。
2センチの背幅で、文字ばっかりで、1500円。
どこがいいのかさっぱりわからない。
本当にわからないわ。
家に帰ってコンビニの弁当をあっためて、無感動に箸を動かしながらあの本を読むのが最近の日課になっていた。初めはページに書いてある文字を見るだけでくらくらしたけど、今は一日に2〜3ページ読める。
幼い姉妹の日常が淡々と書いてある本だった。
読みながら自分の子供時代を思い出すといっていたけど本当にそんな本だった。
結構面白いじゃない。あたしはめっけもんだと思った。
なんだかだんだん本を読むのが楽しくなった。
どうせ一人暮らしだし、昼夜逆転してるしで滅多に外には出かけないあたしには丁度いい暇つぶしだった。無意味に本屋に寄って、適当な本をぱらぱらとめくる。興味を持った本は買うことにした。ただし前の本を読み終わっているのが絶対条件。でなきゃ読みかけの本で部屋が埋まっちゃう。
その日もあたしはうきうきと本屋へ向かった。
やっと3冊目の本を読み終わったところだ。今日は何を買おうか。
ハードカバーと大きく表示されたコーナーの下に立つ。平台におすすめの本や新刊が並んでいた。
実はまだ小さなサイズの本には拒否反応する。だって本にあわせて文字も小さくて目がつぶれちゃう。
大きめな文字で行間をあけて優しい表現。これがいいのよ。
「おや」
独り言のような呟きに顔を上げるといつかのあの人がいた。
「あら、久しぶり」
「お元気そうでなによりです」
その人は品の良い笑いを浮かべた。相変わらずの白髪が店内の照明にきらきらと反射していた。
妙な縁があるんですねとその人はカップを傾けた。
カフェテラスのくっついた本屋ってこういうときに役に立つ。
「あれからあの本読んでみたのよ。熱く語ってたやつ」
「どうでした?」
「面白かった!」
あたしは満面の笑みで答えた。本当に面白かったのだ。
「それはよかった。今日はなにを?」
その人も嬉しそうに笑った。
新しい本を探していると告げると、ではこれはと鞄から取り出した小さな本を差し出された。
見るからに古い、太陽光を吸いすぎて茶色に変色した本だった。しかもあたしの苦手な小さな文字!
「あたし小さな文字苦手なの。読みにくいし」
まるで嫌いなおかずを前にした子供みたいな言い方だなと我ながら思った。
その人は少し困ったような顔をした。
「ううん、そうですか。これはもうこのサイズしかないんですよ。絶版になってしまったので。小さな文字は初めは骨が折れますけどね。まあ僕でも読めるから」
言いながら老眼鏡をかけて、小さな本を広げた。活字を追う目が優しい。
悪くないかな、とあたしは思った。
部屋に帰ってお茶を入れる。今日は食べてきたから簡単なおかずだけ。
おかずを食べながら小さな本を取り出して読み始めた。
悪くないなんて思ったのは全力で気の迷いだったのだとあたしは思った。
この小さな本、ごはんを食べながらなんて見られない。
思いっきり集中して、真剣に本に向かい合わないとちっとも先に進まなかった。
「なんなのよこの本!ちっとも進まないわ」
数日後公園で会ったとき、あたしがぶつくさ言うとその人は声をあげて笑った。
「それが読むということですよ」
あたしはむう、とふくれてまた本に向かい合う日々が続いた。
本を借りるお返し、というわけではないけど、あたしはよく彼を食事に誘った。
おじいちゃんだからなと思って和食中心。中華は苦手だけど、あっさりした西洋料理なら好きと言っていた。ワインも好きみたいだ。箸の使い方が丁寧で、ナイフとフォークも器用に操った。
そういえばどこぞの会長さんだっけ。
そんな雰囲気なかったから忘れてたわ。
あたし達はとくに何をするわけでもなかった。
最近読んだ本の話。生まれた家のこと、家族の話。昨日食べたごはん。ちょっと気になる映画。本当に呆れるほどとりとめのない話ばかり。
実家のお父さんお母さんのこと、祖父のこと祖母のこと。兄弟の話やあっちは戦時中のこともちらっと言った。戦時中というよりは戦後らしいけど。
「ケータイの番号教えてよ」
とあたしが言うと持っていないと彼は言った。
「今時持ってないの!?」
「必要ありませんから。縁があれば会えますし。なんでしたら今、次を決めればいいでしょう?」
そりゃあそうなんだけどさ。今時ケータイも持ってないなんて。急になにかあったらどうするの。
あたしはケータイの番号を教えた。仕事用じゃない、プライベートのやつ。
彼は手帳を広げてゆっくりそれを書いた。万年筆が優雅に紙面をすべる。魔法みたいだ。
「留守電になってたら伝言入れてね。折り返すから」
はいと折り目正しい返事が返ってきた。
この分じゃ電話は来そうにない。あたしは内心溜息をついた。
予想は裏切られて、電話が鳴った。
しかも翌日に。
あたしは仕事中だったから出られなかった。
ロッカールームでケータイを見るとぴこぴこ留守電のマークが光ってる。
誰だろう。お母さんかな。
そんな気持ちで留守電を聞いた。
「こんばんは。入院をすることになったのでご連絡します。本、ゆっくり読み進めてください」
あの人の声だった。
留守電に入っていたのはそれだけ。ちょっと病院名がないじゃない。
あたしは光る液晶を黙って見つめた。
なんであたしはこんなに動揺してるんだろう。
いや、でも知り合いが入院したらびっくりするでしょう誰だって。
でもあたしは待つしかなかった。
あの人の連絡先を何一つ知らないのだ。
数ヵ月後、郵便受けはめったに見ないけど、その日はたまったDMを処分するために郵便受けを開けた。
カラーのピンクチラシやDMにまぎれて味気のない茶封筒が申し訳なさそうに挟まっていた。
明らかに老人の書いた文字(達筆と言うのか、ある一定以上の年齢の人が書く綺麗なニホンゴ)であたしの名前と住所が書いてある。リターンアドレスは病院になっていた。
古めかしいその名前に心当たりはなかったけどあの人だと直感する。
封筒を開けるとこれまた和風な縦書き便箋が顔を出す。らしいというかなんというか。
「ご無沙汰しています。お元気ですか。
こちらは相変わらずです。病室から見る夕焼けはそれなりに綺麗ですよ………」
几帳面な字で綴られた手紙。
字のひとつひとつが語りかけてくるようで、あたしは思わず微笑んでいた。
何度も何度も読み返す。
病院は、1時間もあればいけるような距離だった。
今日は特に予定もないし、行ってびっくりさせてやろう。あたしはそう思った。
メイク道具をざっと広げてから、行き先が病院だと思い出す。けばいのはマズイよね。香水も…やめたほうがいっか。
本当に基本的なベースだけ施して眉を書く。
なんだか物足りない気もするけどまあいいか。
あたしは病院に向かった。
待っていたのは看護婦のつれない返事だった。
「ご家族の方以外お断りさせていただいております。社会的地位のある方ですので」
「どうして?手紙をもらったわ」
彼の手紙を見せる。
看護婦は興味なさそうにそれを見たが、食い下がるあたしに折れたのかどこかに内線をかけた。
許可が出たらしい。
病室を告げられて、エレベーターに乗る。
お見舞いの花も買ってきた。花の趣味まではわからなかったからお店の人におまかせ。いい匂いだ。
病室の前でわざとらしく咳払いする。
「じゃーん、来たよう!」
開けた扉の先に彼はいた。
あたしは心臓が止まりそうだった。
シンプルすぎるほどシンプルな病室にがりがりに痩せた彼が横たわっていた。
もともと細身だったのに別人みたいだ。
「おや、いらっしゃい」
彼が寝たまま声をかける。あたしはゆっくりとドアを閉めた。
「手紙が来たのに今日気づいたから」
「ああ…すみません。私はどうにも古い人間なので携帯にはなじめませんでした。部下に、探させて手紙を。失礼しました」
声も驚くほど弱弱しかった。なんだか涙が出てくる。いけないひっこめろと自分に命令した。
「いいのよ。嬉しかった」
彼が力なく微笑んだ。
窓の外を小鳥達が横切る。
太陽の光を浴びて、彼の指にはまったエメラルドの指輪がきらりと光った。光物をするなんて珍しい。
「指輪?」
「…結婚指輪です」
「奥さんは?」
彼が遠い目をした。昔を懐かしんでいるようだ。
「とうに死別しました。子供はいません。今は妹夫婦の世話になっています」
「寂しいわね」
あたしが呟くと彼は笑った。
「どうして。あなたがいます」
あたしも笑った。
それから彼に借りた本の話をした。もう読み終わったと告げると、続きがそこの棚にあるから持って行くといいと彼が言った。あたしは正直これ以上本とマジで向かい合わなければいけない「読書」とやらはしたくなかったけど、彼がすすめるものにはずれはないから妥協した。
「借りていくわ」
本を片手に振り向くと、彼はもう空気に消えそうなくらい薄い気配だった。
「また明日くるわね」
「そんなに早くは読めないでしょう」
「それでも来るわ」
あたしは病室を出た。
これ以上いたら涙が我慢できそうになかった。
あんなにやつれているのが凄くショックだった。
病室前で涙をこっそり拭き取った。と、不躾な声がする。
「あんた、なんなの」
50代くらいのおばさんがそこにいた。濃いメイクにぷんと薫る香水。
「お見舞いにうかがわせていただきました」
鼻をすってからお辞儀をする。おばさんは値踏みするようにあたしを見た。
「あの、随分痩せてしまったようなんですけど…そんなに悪いんですか」
「なによ遺産待ち?半年も待てないの?あんたにやるものなんて一銭もありませんからね!」
あたしは硬直した。
半年?
半年って…。目の前がぐらぐらして真っ暗になる。
ドアをふさぐような形で立っているあたしの前におばさんが立った。
「邪魔よ」
すいませんと言ってよける。足がよろよろとよろけた。
町が、景色がゆがんでいるようだ。
どうやって家にたどり着いたのかさっぱりわからない。
どうしてこんなにショックを受けているのかもわからない。
あの人とはお店で出会った。本の話をあんまり熱心にするから、興味を持って。勧められて本を読み始めた。たまに食事をして、よく話をして、それだけの人だ。
他人ではないけど友人と言うには言葉が足りなくて親友でも恋人でもない。
それでも心にはぽっかりと穴が開いて、今頬を流れるこれは涙で、涙だ。
あたしは関係を表す言葉ももたないあの人が大切だと思った。死んでなんかほしくない。
彼の妹らしいあのおばさんは私の来訪を喜ばなかったけれど、彼は嬉しそうに迎えてくれた。
仕事前に立ち寄って、彼と話をしてというのが日課になった。
彼は病室でいつもエメラルドの指輪をしていた。
「素敵な結婚指輪ね」
「昔は貧乏で妻に唯一買ってやれたのがこの指輪でした。結婚指輪なのにお揃いではないんですよ。彼女の分しか買えなかった…」
「奥さん喜んだでしょ」
「そりゃあもう。それまで着物もなにもねだったことのない人でしたが、とても喜んでくれて。その時、我慢させていたのだと実感しました。妻が死ぬときも指輪を大事そうに抱いて息を引き取りました」
あたしは死ぬという言葉にどきりとした。息をのんでしまったかもしれない。
強張ったままのあたしを見て彼は目で微笑んだ。
「…あなたは優しい人だ」
そう言って目を閉じて眠ってしまった。
寝息がすうすうと病室を満たす。
彼は薬の副作用で眠ることが多くなった。
一日の大半を眠って過ごす。だんだん目の覚める時間が少なくなって、やがて死ぬのだそうだ。
彼の寝顔を見るだけでつらかった。
それでもあたしは毎日病室に通った。
彼の姿を見るために。
彼とはよく奥さんの話をした。
思慮深くて潔くてちっともあたしに似ていない人だった。
伊豆の海に新婚旅行に行ったのが忘れられない。また行きたいと彼は言った。
あたしは困ったように笑い返した。また行けばいいとは気休めでも言えなかった。
「夢で行けるよ。奥さんもいる」
我ながら陳腐な答えだと思った。
それでも彼は満足そうに瞳を閉じた。
彼が再び目を開けることはなかった。
事務手配をする親族の横であたしはただぼうっと彼を見ていた。
やがて邪魔だと横にのけられて、次々と葬儀の手配が進んでいく。
どうして誰も泣かないのかすごく不思議だった。
あたしですら頭が麻痺したように動かない。でもきびきびと動く人たちはきっと別の理由で泣かないのだと思った。
あちこちで打ち合わせをしていたおばさんが彼の体が通り過ぎるときに声を上げた。
「待って!指輪がないわ!」
彼が病室でいつもしていたエメラルドの指輪が消えていた。
おばさんはためらいなくあたしを睨んだ。
「あんたね。出しなさい!この泥棒!」
あたしはなんのことだかさっぱり理解できない。ぼうっとしているとおばさんはあたしの鞄をひっくり返した。がしゃがしゃと派手な音をたてて携帯やコスメが落ちていく。
ざっと並べて無いのがわかるとふんと鼻をならして葬儀屋とどこかへ消えた。
あたしは床に落ちた鞄の中身を呆然と見ていた。なんだろう、まるで現実感がないや。
見かねた看護婦さんが中身を揃えて渡してくれた。受け取って鞄に収めると病室を出た。
彼がいないなら、ここにはもう用はなかった。
指輪。
そんなものいらなかった。
あの人があたしにくれるものなら、あたしはどんな不名誉だって喜んでもらおう。
言葉にすれば溶けてしまうようなたくさんのものをあたしはもらったのだ。
伊豆の海が見たいと言ったのを思い出して電車に乗る。
海なんてどこだっていっしょじゃないと言ったら穏やかに笑っていた。
「伊豆はね、やっぱり一番なんだよ。深い色が澄んでいるんだな」
だいたい今ならハワイとか沖縄とかどこにだっていけるじゃないの。本当に発想が昭和の人だ。
電車が揺れて、海が見えた。
伊豆の海は濁っていた。ほらね、これなら沖縄のほうがよっぽど綺麗だ。
きらきらと水面が輝いてみえるのはこの涙のせいだとあたしは思った。
あたしも暇じゃないのよ。あなたが綺麗だって言うからこんなところまで来て。
あなたがいないから全然綺麗になんか見えない。目の前がぐちゃぐちゃでなにも見えないじゃない。
電車がホームについても、あたしは降りることが出来なかった。
3日後、あたしの家に手紙が届いた。
震える手でよたよたしながら書かれたその文字はあたしだから読めるようなものだった。
「伊豆の海はこんな色です」
くしゃくしゃになったティッシュに包まれて、あの人のエメラルドの指輪が入っていた。
【完】