ことば日和

MENU | HOME

  ロマンサのくちづけ  

 彼の唇はいつでも熱い。
 私に触れる。「幸運を」と呟く。
 私はその瞬間が好きだった。

 その日は雪が降っていた。
 彼の待ち人は、少し予定より遅れているようだ。
 物影から玄関の様子を見た彼は、誰もいないのを確認して、また身を潜めた。雪は段々強くなってきたけれど、彼は気にしないようだった。黒髪の上に積もっても、肩が冷えても、その息が白いことさえ無視していた。
 ただひたすらに玄関を見つめる瞳には、怒りが沸いていた。
 私は知っている。
 彼の全身を満たす怒り、あるいは悲しみと呼ぶべき感情を。
「冷えるね」
 彼がぽつりと呟いた。
「まるで君の体のようだ」
 黒い瞳が思いを馳せるように遠くを見た。
 あの日を思い出しているのだと、私は確信した。
 
 彼の恋人との最後の対面。冷たくなった彼女は、遺体安置所の中でまるで眠っているようだった。長いウェーブの髪がさらさらと白い肌に映える、綺麗な人だった。私を両手に抱いて、彼女は静かに目を閉じていた。
 彼がよろよろと入ってくるのが見えた。安置所の床は冷たい。凹凸に足を取られながら、彼は彼女に歩み寄った。
「嘘だ」
 彼は弱弱しく呟いた。
 ぽろぽろと大粒の涙が、彼女の胸に抱かれた私に降り注いだ。
「嘘だ、ロマンサ」
 私は男の人がこんなに泣くのを初めて見た。
 後から後から、まるで枯れることがないというように、彼はぼろぼろと泣き続けた。泣きながら、彼女の名を何度も呼んだ。愛してる、なんで、とも言った。それでも彼女が答えることはなくて、彼は彼女の手に触れて――冷たさに、また泣いた。
「自殺でした」
 お気の毒です、という管理人の言葉すら、彼には届いていないようだった。ひたすらに、「なぜ」と「なんで」を繰り返す。
 その理由を知った時の彼の目――私は一生忘れないだろう。
 涙がすうっと引いていった。みるみるうちに瞳に満ちた感情、あれはきっと、怒りと言うのだ。
「なん――だって?」
 口にした、それはもはや疑問ですらない。手が震える。手だけではない、体が。そして、彼は震える瞳のまま、私を見た。
「ですから」
 遺体安置所の管理人が、申し訳なさそうに告げた。
 ここで命を絶つ前に、彼女が告げた言葉。
 場所を汚して申し訳ない、それから――
 彼に、伝えてください。私はもう共にいけないと。
 そう言って、彼女は私を喉に突き立てた。遺体を整え、丁寧に腕を組ませ、私を胸に抱かせた管理人は、彼に彼女の真実を告げた。
 戯れに彼女を死に追いやった男達がいること。その数、六人。
 両親の墓参りに訪れた彼女を弄び、辱めて、挙句笑いながら去っていったのだと。そして彼女は、墓場の片隅にあるこの遺体安置所を訪れ、命を絶った。
「ロマンサ」
 彼は震える声で囁いた。
「君は綺麗だ」
 震える唇で彼女に口付けて、彼は私を手に取った。その時彼は、笑っていたように思う。
「ずっと綺麗だ」
 彼が瞼を閉じた拍子に、涙が零れ落ちて、それは私の肌を伝って、彼女の頬に流れ落ちた。あの時初めて、私は彼らの間に立ち入ることを許された気がする。
 
 遠くを見つめる彼の瞳を映しながら、私もまた思い出していた。
 彼が迎えたそれからのこと。
 寝食を忘れ、男達の素性を調べ、これまでに彼女の元に二人送った。
「あと四人」
 彼が呟いた。
 全てを終えたら、君の元にいけるよ、と微笑みながら。
 待ち人が現れた。
 彼が私に口付ける。
「幸運を、ロマンサ」
 彼が名づけた私の名前。かつての彼の恋人の名。
 その身を以って怨敵を屠る、私は彼のナイフ。


【ロマンサのくちづけ・完】
2006.10.10.
MENU | HOME
Copyright (c) 2007 mao hirose All rights reserved.