キス×キス
キスっていうのは、もっとロマンチックなものだと思ってた。
場所だって、こんな教室なんかじゃなくって、夜の公園とか、流行のデートスポットとか。だんだん無口になって、気付けば唇が触れている……くらいのことはあってもいいんじゃない。
それが、なに、今の。
「お、プリント持ってきてくれたんだ。サンキュ」
って、まるで小鳥がついばむように、チュ?
唇の感触が、「いやぁ、これは間違いありませんね。キスです。有効!」なんて判定くれちゃってるし、どういうことなの。
肝心の委員長は、もうなんでもなかったような顔してクラスにプリント配布始めてるわけだし。なんなのそのメガネ。うざいから外せよ。
かくして、教室の入り口で突っ立ってるあたしの出来上がり。
「どうした? 沢口」
ようやく委員長があたしに気付いた。黒の学ランに、少し日に焼けた健康そうな肌。かしこそうな顔、と言えば聞こえがいいんだろうけど、早い話がガリ勉面だ。内申点よさそうで、まぁうらやましいこと。
「沢口?」
委員長の声に我に返る。どうした、と手を伸ばされて、あたしは反射的にその手を弾いてしまった。
「ばか!」
漢字で馬鹿、と罵れない自分の愚かさを悔やみつつ、あたしは教室を後にした。
これは友達のみっちゃんから聞いた話だけど、その後委員長はあたしが叩いた手(赤くなってたらしい)をじっと見て、それからにやりと笑ったのだとか。
うう、キモイ。
あたしがぶるりと身を震わせると、みっちゃんは言ったのだ。
「あの委員長嫌うのってあんたぐらいよね。文武両道で性格も良くって、結構人気あるんだけど」
冗談じゃない。
あたしが好きなのは、「こんにちは」と挨拶するくらいなら「チュース!」、「ウッス、先輩おつかれさまッス」と言うような体育会系なのだ。あんな、真面目が服を着て歩いているような委員長は御免こうむる。
とは言え、同じクラスである以上、あたしが教室に戻ればヤツはいるわけで。
口をきくのも嫌だったから、授業が始まる直前に戻ったけど、委員長の席はあたしのななめみっつ前。黒板を見れば、ご丁寧に視界に入るのだ。
ほら、今も。
顔のラインがわずかに見える。
ショートカットの黒髪は、ちょっと癖があるみたいだった。
姿勢は、ふぅん、いいみたい。
メガネの位置を直そうとした指先が止まる。
そのまま、メガネのツルに手をやったまま、委員長は少しだけ振り返った。見ているのはわかってるんだぞと言わんばかりの瞳と目が合う。
あたしは慌てて教科書を立てて、机に突っ伏せた。
「こらぁ、沢口、寝るな!」
チョークが飛んできてあたしに刺さった。クラス中がくすくすと笑っている。
くそ、なにもかもあいつのせいだ。
さっさと帰ろうという放課後。
なぜか委員長はあたしの前に立ちはだかった。というか、出入り口の前にいるから、あたしが出られないだけの話。
こんな日に限って、どうしてみんな委員会やら部活やらでいなくなるかな。おまけに、ドアのひとつが壊れて、唯一使えるのが委員長の傍のだけってどういうこと。
あたしの葛藤を知ってか知らずか、委員長はみんなから集めたプリントの整理をしていた。
よし。
「今日、悪かったな」
出来るだけ早足で駆け抜けようとしたあたしを、委員長が呼び止めた。目線はプリントを見たままだ。
「初めてだったって? 向坂に怒られた」
みっちゃんだ。あたしはなんだか嬉しくなった。
「別に。ファーストキスに、ちょっと夢見てただけ」
ぷいと顔をそらす。
委員長が手を止めて立ち上がった。あたしが後退すると、ドアを閉めて傍の机に腰掛ける。あたしと話すことにしたようだ。
あたしは話すことなんてないんだけど。
「沢口はどんなのがしたかったんだ?」
委員長が聞く。あたしはむっとしながら答えた。
「夜の公園とか、流行のデートスポットとか」
「放課後の教室ってのも、ムードがあると思うけどな。それで?」
委員長が周りを見渡しながらメガネを外す。
「だんだん無口になって、……それで」
あたしがうつむく。
どこからかチャイムが鳴って、野球部の掛け声が聞こえた。廊下を小走りに帰っていく生徒達の足音が聞こえる。
茜色の光が、穏やかに教室を照らしていた。
あたし達の影が、一瞬だけ重なる。
「……こう?」
ゆっくりと唇を離して、委員長が囁いた。
その瞳を覗き込むように見てしまった。黒く、深く、真っ直ぐにあたしだけを見てる。
「う、わ」
変な声が出ると同時に、かあっと顔が熱くなった。
「はは、沢口、真っ赤だ」
委員長が指を差して笑う。なんてデリカシーのない男!
むかっと腹が立つ。あたしは委員長の座っていた机を蹴飛ばした。
「おっと」
一瞬バランスを崩した委員長は、ひらりと着地する身軽さを見せた。
「やっぱり沢口は面白いな」
なんて言ってる。むかつく!
あたしはくるりと委員長に背を向けた。
「だから好きだよ」
途端に真剣な声で委員長が言った。振り向かなくてもわかる。微動だにせず、あたしを見てる。
足が、床に張り付いたように動かなくなる。
あたしの顔が赤いのは気のせいだ。
ばくばくと心臓がうるさい。こら、いつの間に趣旨変えしたの。
「あたしは……っ」
叫ぶようなあたしの返事を、委員長は面白そうに聞いていた。
校庭の人影は長く伸びて、あたしの憂鬱な高校生活の始まりを告げていた。
【キス×キス・完】
2006.10.24.