銀のスプーン、星のシチュー
おばあちゃんが死んだのは、私が中学二年生の初夏だった。
私が中学に上がる頃には、もう大分ボケが進んでいて、お父さんが誰かもわからないようだった。ひいおじいちゃんと間違えられた時、お父さんは一瞬目を丸くして、それからちょっと寂しそうに微笑んだ。
私が中学二年になると同時に入院。それから、お母さんはずっと病院と家との往復だった。誰の顔にも疲労が滲み始めた頃、おばあちゃんはそれを察したように息を引き取った。
「ずっと待っていたいけど……難しいねぇ」
最後の言葉の意味は、誰も理解できなかった。
「誰のことだろう?」
私が言うと、
「去年亡くなったおじいちゃんのことじゃないかしら」
お母さんが首を傾げた。隣で、お父さんも同じような顔をしていた。
おばあちゃんの安らかな死に顔を見ていると、幼稚園の頃やもっと以前に、よく話をしたことを思い出した。
桃太郎、金太郎、かちかち山といった昔話をおばあちゃんはそらんじることができた。ただ、それが西洋の昔話となると苦手だったようで、シンデレラなんかはちょっとつっかえながら読んで聞かせてくれた。
けれど、私が好きだった話は、どの絵本にも載っていない。
おばあちゃんが出逢ったという魔法使いの話だ。
昭和に魔法使いがいた、なんて変な話だと思う。
なんというか、似合わない。
私が聞いたおばあちゃんの昭和というのは、テレビはリモコンがなくって、わざわざテレビについているチャンネルをまわさなければいけなかった。しかも白黒。どちらかというとラジオが優勢だったなんて信じられない。
ゲーム機なんかはもちろんなくって、外で遊べと子供は家から放り出される。メンコにビー玉、おはじき。何も手にするものがなくたって、子供達は自分で遊びを作り出すことができた。あちこちに響く「もういいかい」の声、絶えることのない蝉時雨。
今ほど高いビルはそんなになくって、見上げればいつだって空は欠けることなく青く澄んでいる。今とは色が違う気がするともおばあちゃんは言っていた。
おばあちゃんがその魔法使いに会ったのは、おばあちゃんが十二歳の時だったという。
夏休みだった。
近所の家に西瓜をわけに行って、その帰り道の畦道。田んぼの土手に、誰かいた。おばあちゃんより背が高く、若いくせに白い髪をしたその男は、西洋の衣装を纏っていた。
「なにしてるの?」
見慣れない怪しい人だとおばあちゃんは思った。
「蛍の光を集めているんだ」
おばあちゃんの声に振り向いたその人の顔は、思ったより幼かったらしい。少年と青年の境目、とでも言うのだろうか。眉もやっぱり色がなくて、長い睫の下にある瞳は、緑とも青ともつかない不思議な色をしていた。揺らめいて見えるのは、彼が手にした蛍のせいだろうとおばあちゃんは考えた。
「蛍を、でしょう?」
見慣れても怪しい人だとおばあちゃんは思った。
「光だけだよ、ほら」
その人が弁明するように両手を差し出した。掌を合わせあったその隙間からは、光が零れている。
その人が手を離すと、円を描いた光がゆっくりと空に登って行った。どれだけ目をこらしても、そこにいるはずの蛍がいない。
おばあちゃんは驚いた。
「嘘」
「嘘じゃない」
これは魔法の材料になるんだとその人は言った。
「ああ、折角集めたのに、君に見せたら飛んで行ってしまった」
仕方ないなと言いながら、その人は辺りを見回した。近くを流れる清流に、蛍の光がちらちらと見える。
「あっちか」
「あの」
おばあちゃんが声を掛ける。
その人は意外そうな顔をしながら立ち止まった。
「キヨー、帰ってきなさい」
家からお母さんの声がする。おばあちゃんが振り返るのを見て、その人は笑ったと言う。
「僕は明日もここにいる、キヨ」
狐につままれたような気持ちで、おばあちゃんは何度も振り返りながら家に帰った。
「どうしたの。いやに時間がかかったじゃない」
お母さんに言われて、おばあちゃんは後ろを振り返った。
「あそこに、人が」
「どこに?」
街灯のない田んぼは真っ暗で誰の姿も見えなかった。蛍の光も消えている。
おばあちゃんは狸に化かされたと思ったらしい。
翌日の夜、同じ場所にその人はいた。
満点の星空の中、背を伸ばして立っている西洋衣装の男。肩につくような長い髪。一見すれば女のような顔立ちをしているが、肩幅は意外と広かった。
「キヨ」
おばあちゃんを見つけると、その人は子供のような笑みを浮かべた。屈託のない、満面の笑顔。おばあちゃんの胸が、どきりと高鳴る。
「あなた、だあれ?」
「魔法使い」
「まほう……?」
「ほら、昨日の蛍」
その人は嬉しそうに小瓶を見せた。ガラスの中に光がぎゅっと詰まっている。そしてやっぱり、その光を発しているはずの蛍の姿はどこにも見えなかった。
「あれからちょっと頑張ったんだ」
その人はえへんと胸を張った。
「それ、どうするの?」
「キヨ、欲しい?」
「え?」
目を丸くするおばあちゃんの前で、魔法使いはなにやら呪文を唱えた。あれはお経とは違う、聞いたことのない響きの言葉だったとおばあちゃんは言った。
ポンという音と共に、目の前の小瓶が変化した。
光を閉じ込めた球形のガラスのペンダントに。
「銀の鎖はおまけだ」
そう言って、魔法使いはおばあちゃんの首にペンダントをかけた。
胸元で、ぼうっとペンダントが光る。不思議なことに、そのペンダントは夜、光のないところでだけ輝いたそうだ。
「あなた……」
おばあちゃんはそれを見ながら呟いた。
「ん?」
「そんなに若いのに白髪なんて、変なの」
魔法使いの眉が八の字になった。口はへの字をしている。あれはとても変な顔だったと、思い出す度におばあちゃんは笑った。
「これは銀髪って言うんだ。ほら、よく照らして見てごらん」
言われて、おばあちゃんはペンダントを近づけた。
絹のような髪に、天使の輪が現れる。なるほど、言われれば髪のひとつひとつが銀色に輝いているようだった。
綺麗だ。
「……よく、わからないわ」
なんだか自分の黒髪がいたたまれなくなって、おばあちゃんはそう言った。
「そうかなぁ?」
でも白髪じゃないんだ、と魔法使いは重ねて弁明した。
あまりに必死に言い訳するものだから、おばあちゃんは笑い出してしまったという。
「人が必死になっていることを笑うなんて、最低だ」
拗ねた魔法使いは、土手に座り込んだ。
「ごめんなさい」
慌てて、おばあちゃんが謝る。
それから、少し距離を置いて、おばあちゃんも土手に腰を下ろした。
たくさんのことを話した。
魔法使いは、魔法の開発が趣味であること。あちこちの国を巡っているけれど、彼の住んでいる場所は、そのどこにも属さないこと。今までに食べて美味しかったものの話、とんでもなくひどかった失敗の話。
とめどなく彼の口から溢れてくる言葉のひとつひとつが宝石のようだったとおばあちゃんは言った。なぜだろう、他愛もない話なのに、心に響いて忘れられない。
「そうだ!」
魔法使いはおもむろに立ち上がって言った。
「キヨ、シチューが食べたくないか?」
「シチュー?」
魔法使いがなにやら唱えると、見たこともないずん胴の鍋と銀色のおたまが現れた。空っぽの鍋をそのおたまで叩くと、途端にシチューが溢れ出す。
「一口、どうぞ」
勧められるままに、おばあちゃんはおたまに口をつけた。ほかほかと湯気を出すシチューは、牛乳の優しい香りがした。
「あつい!」
「気をつけて」
口元を押さえたおばあちゃんが、もう一度、今度はちゃんと息を吹きかけて冷ましながら、シチューを飲む。
「……おいしい」
おばあちゃんは驚いた。あの後、たくさんシチューを飲む機会があったけど、あれ以上に美味しいシチューには出会ったことがないと言っていた。
「そうだろう!」
魔法使いは気を良くしたようだった。星空に向けておたまを掲げ、得意げに言う。
「今ね、新魔法の開発中なんだ! あの星を入れた星のシチュー! どうだい、おいしそうだろう?」
「素敵ね」
おばあちゃんは微笑んだ。
「だろう!」
魔法使いがおたまで鍋を叩く。星空のうち、ひとつの星が煌きながら鍋に入り込んだ。
途端に、ボフンという音がして、あたりに焦げ臭い匂いが立ち込める。もうもうと煙が立ち込め、どちらからともなく咳き込んだ。
おばあちゃんが鍋を見ると、シチューは真っ黒に焦げて、魔法使いは煤だらけだった。
「……今、開発中なんだ」
ごほりとむせながら、魔法使いは言った。
「できたら、キヨに食べさせに来るよ!」
そう言って、指切りをした。
それっきり、魔法使いがおばあちゃんの前に現れることはなかった。
私がそんなことを思い出したのは、夏休みに入って、そろそろお盆も近いという頃だった。平成に移り、申し訳程度の街灯が設置された田んぼは、夜になると相変わらず真っ暗だ。かつておばあちゃんが住んでいた家は、今は私の家になっている。家族が増えたからと改築をして、全く面影が残っていないそうだけど。
夕食の後からと取り掛かっていた夏休みの宿題を一区切り終え、うんと伸びをする。何気なく田んぼに目をやって、私は驚いた。
畦道の真ん中に、誰かいる。
それは不思議な光景だった。
街灯と街灯の間、真っ暗な場所のはずなのに、なぜか私にはその人の姿がはっきり見える。周りの空気が違うのが一目で知れた。
背の高い、銀髪の男。レトロなマントを羽織っている。
私は慌てて駆け出した。サンダルを履くのももどかしい。
息を切らして田んぼの真ん中に辿り着くと、男は嬉しそうに笑った。
「キヨ!」
やっぱり、話に聞いた魔法使いだ。
年を取っていないのだろうか。おばあちゃんよりずっと年上だったというのに、二十五・六くらいにしか見えない。顔は、大人な顔立ちなのに、どこかあどけなさの残る印象だった。
「私は、キヨじゃないわ」
魔法使いはきょとんとした。
「だってそれ、僕がキヨにあげたものだ」
魔法使いは私の胸を指差した。おばあちゃんの形見のペンダントが、淡い光を放っている。そう、これがあるから、私はどこか夢物語のようなおばあちゃんの話を信じることができた。
「おばあちゃんなら、この間死んじゃった」
魔法使いの目が瞬いた。
「キヨが、死んだ?」
「そうよ」
「嘘吐き。僕の魔法ができるのを、待ってるって言ったくせに」
不満げに魔法使いが言った。
瞬間、込み上げた感情をなんと言うのだろう。気付けば私は、思い切り背伸びをして、魔法使いの頬を叩いていた。
「なにをするんだ!」
「おばあちゃんは、ずっと待ってたわよ!」
私は叫んだ。目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
「本当にいるんなら、本当の魔法使いなら、どうして会いにこなかったの!」
魔法使いが、殴られた感触を確かめるように頬を撫でた。
「キヨに、喜んでもらおうと思って」
ずっと魔法の開発を。
魔法使いが寂しげに俯く。
その間、おばあちゃんは待っていた。やがて「他に想い人がいると知っているけれど」とおじいちゃんに告白されて、結婚して、お父さんが生まれて、家族を持って――、それから死んでしまった。
「キヨが……そうか」
魔法使いが呪文を唱える。手にしたのは、銀色の鍋とおたまだった。リズミカルに高い音を刻みながら、鍋を叩くと、夜空から星達が尾を引いて落ちてきた。綺麗な光が弾けるように次々と鍋の中に降り注ぐ。目も眩むような光を放った後、鍋にはあたたかなシチューが満ちていた。
また魔法使いがなにやら唱えると、真っ白なシチュー皿と銀のスプーンが現れた。魔法使いが皿にシチューをよそう。
「食べてよ」
スプーンをつけて、魔法使いが私にシチューを差し出した。
私が手を出さないでいると、魔法使いが呟いた。
「キヨの代わりに」
鼻をすすりながら、それを受け取る。
温かなシチューは、やわらかな香りがした。
口をつける。
飲み込もうと思うのに、後から後から涙が溢れてきた。
おばあちゃんがまだ生きていた頃、夜中に外まで飛び出したことがあった。
真っ暗な畦道に裸足で立ち、満天の星空を見上げ、おばあちゃんは泣いていた。
ただひたすらに声の限り、空を見上げて泣いていた。
お父さんとお母さんには、理由がわからないみたいだった。
私も、その時はわからなかった。おばあちゃんがいよいよ壊れたと思った。
でも、違う。
『ずっと待っていたいけど……難しいねぇ』
きっともうすぐ死んでしまうとおばあちゃんはわかったのだ。
老いて行くこの身が悔しくて、会えないもどかしさに胸が苦しくて。
泣いて叫ばなければ、やっていられなかったのだと思う。
今なら、わかる。私にはわかる。
おばあちゃんは、ただ恋をしていた。
銀のスプーンを握り締める。
星のシチューは、ほろ苦くて甘い、初恋の味がした。
【銀のスプーン・星のシチュー・完】
2007.3.15.