私の指先、死、そして青空。
四角く切り取られた青空に、小鳥が一羽。
それが私のいつもの風景。
小鳥、お前はどこへ行くの。
お前の翼が恨めしいと思ったのは遠い昔。今はもう、心が動かない。
こうして床に仰向けに寝転んでも、誰がとがめるわけでもない。
空はこんなに近いのに、手を伸ばして届くわけでもない。
地上は遥か遠く、土の匂いなんて忘れてしまった。
最後に髪をとかしたのはいつだったろうか。
伸び放題に伸びた私の髪は、蔦に絡まりながら地上に降り、時折塔の傍を通りかかる旅人を殺めて楽しんでいる。
くきり、と首を折る感触が髪に伝わる。嬉しくも悲しくもない。心が錆びてしまった。
そんな私を、人は魔女と呼んだ。
初め、私はきっと人だった。
山に囲まれた緑豊かな村に生まれた。
両親は優しく、一人っ子だった私を可愛がってくれた。祖父母もいたし、大好きな幼馴染もいた。
ある日、私の両親が病に倒れた。
看病の甲斐なく死んだ。最後は私の手を握っていた。
祖父母も倒れた。
私が枕元で声をかける度に弱り、やはり死んだ。
やがてその病は村中に伝染した。
幼馴染が理由をつきとめた。原因は、私だと。
私に触れる度に母が、私と遊ぶ度に父が、私を可愛がる度に祖父母が、弱り死んでいく様を見たと。
そしてかく言う自分すら、この女と話すと具合が悪くなるのだ、と私を指差して言った。
私は否定しなかった。
両親や祖父母を看取る時、私の言葉の端から、爪の先から、掌のぬくもりから、命というものが流れ込んでくるのを感じていた。だから、ああ、そうか、とひどく納得しただけで、私は否定しなかった。できなかった。
私の指先が、髪が、言葉が人を殺めると知って、村人達は私を排除しにかかった。
殺そうとした。
私は死ななかった。
槍に貫かれても、水に沈められても、火にあぶられても、毒を飲んでも、私は死ななかった。火にあぶられる時、私の足元の薪に火をつけたのは、ほのかに恋心を寄せていた幼馴染だったけれど、彼は私と目をあわせようとはしなかった。
死にたかった。
私は確かに人として生まれたのに、いつの間にかその定義をはみだす生き物になっていた。
村人達は私をもてあまし、かと言って傍においておくわけにも行かず、妥協策としてこの塔を建てた。
お前のために造ったのだ、登れ、と言われて、私は裸足でこの塔に登った。冷え切った石段を一歩あがる度に、私の心が失われていくようだった。
その時の私の姿は、まったく獣のようだったと思う。
度重なる拷問で服は擦り切れ、裸同然だった。私の体を隠しているのは、唯一、膝まで伸びた私の髪だけだった。
そんな私の姿が、塔の入り口にある鏡に映った。
ひどかった火傷の皮膚はぽろぽろと剥がれ落ち、下から真新しい皮膚が現れていた。傷だらけだった体は手当てなどされたこともないのにすっかり癒え、髪は乱れぼさぼさのまま、けれどしっかりと艶を保っていた。
私は確かに私のはずなのに、これは一体誰だろう。
そう思うと、ぽろぽろと涙がこぼれた。
けれど塔は高く、私がてっぺんに用意された部屋に辿り着くころには、私の涙は枯れていた。
振り返れば、点々と私の涙が落ちていた。乾くことなく頬から滑り落ちた形のまま、階段に転がっている。そうするのが初めから決められていたかのように、涙は光を保ったまま、足元を照らしていた。
私が部屋に入ると、村人達は外から閂をした。石を積み、壁を塗りつぶし、私が出られないようにした。
扉越しにでも私が声をかければ、彼らは死んだかもしれない。
私はそうしなかった。
部屋の中には、簡素なベッドと、テーブルと椅子が置いてあった。
テーブルの上に、服が一着。純白の見事なドレスが用意されていた。
手紙がついていた。
幼馴染の母親からだった。
『あなたがうちにお嫁に来ると疑っていなかったから、ずっと楽しみにしてこれを縫っていました。残念です』
枯れた私の涙が、また息を吹き返した。
残念です。私も残念です。
作業を終えた村人達が立ち去る音がする。
私は扉にすがった。
助けて、と叫びたかった。
叫べなかった。
その頃には、潰された喉はとっくに回復していたけれど、おばさんの手紙が、優しい思い出が、私を叫ばせなかった。
誰も殺したくはない。
私がここで一人過ごして、それで誰も傷つかないのなら、それが一番いいのだ。
私は声を押し殺して泣いた。
私の啜り泣きが風に乗り、村を全滅させていたとは思わなかった。
食べなければ人は死ぬ。
とても簡単なことだと思う。
では、死なない私は人ではないのだ。
これも簡単なことだと思う。
あれから無数の昼夜を経て、季節が何度巡っても、私は息絶えることがなかった。
衰えすらしなかった。
ひたすらに無気力であること以外、すこぶる健康だと思う。
その証拠に、伸びきった私の髪は、いつの間にか窓の外へ出ていた。
蔦に絡まりながら地上に降り、旅人を殺めて遊んでいる。
私にはもう、止める気力もなかった。
代わり映えのしない、この青空が好きだった。
目を閉じれば瞼に浮かび上がる、緑の草原。
流れていく雲の形の、ひとつひとつを愛していた。
今、私の目の前にある空の、小さくいびつなこと。
小鳥、お前はどこへ行くの。
お前の翼が恨めしいと思ったのは遠い昔。今はもう、心が動かない。
ここへおいで。そして、私と共に朽ちなさい。