ことば日和

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  右手の友人  

 わたしの右手には、友人がいる。そっと手を引き、危険を教えてくれる。
 その存在がいつからいたのか、わたしには記憶がない。物心ついた時にはすでに傍にいて、遊びに夢中になり、走り出したわたしの手を引いては、車を避けてくれた。
「あんたは絶対引かれると思ったのに」
 と言ったのは、母だ。道路向こうにいる幼稚園の友達を見つけたわたしは、車が来るのにも気づかず飛び出した。
 母が悲鳴を上げて駆け寄る。
 その瞬間、わたしはぐいと右手を引かれ、元の道に座り込んでいた。母はわたしを抱きしめてぼろぼろと涙をこぼした。死ぬかと思った、と死にかけたのはわたしなのだけれど、我がことのように泣いた。幼かったわたしはただ、きょとんとしていた。
 母は自分が間に合ったのだと思ったらしい。けれど、違う。
 なぜなら、掴まれたわたしの右手に残った痣は、わたしの手と同じぐらいの小ささだったからだ。

 その友人の姿を見たことは、一度もない。声を聞いたことも、ない。
 ただ、その存在をぼんやりと感じることが、時折、ほんとうにごくたまにだけ、あった。
「ひみつの、ともだちだね」
 誰もいない神社の境内で、呟いてみたことがある。
 右手の友人に言ったつもりだった。
 境内に植えられていた杉が、風もないのに揺れた。
 そうだよ、と返事をしてもらえたようで嬉しかった。

 それから、わたしは大きくなり、右手の友人のことは忘れがちになった。
 小学生の頃はまだ危なっかしくとも、中学、高校ともなれば道路には飛び出さなかったし、するとしても、自分で安全を確認できた。
 ふいに思い出したのは、大学の時だ。
 電車を待っていた。乗ろうとした瞬間、右手を引かれた。
 よろめいたわたしは、ホームに降り、もう一度乗ろうとした時には、電車の扉は閉まっていた。
「次の電車をご利用下さい」
 駅員が慣れた様子でアナウンスをかけ、電車が無情にも走り出していく。
 レポートの提出期限が迫っていたので、わたしは青い顔をして電車を見送ったと思う。その電車は、わたしがいつも降りる駅の手前で事故を起こした。それを聞いた時、わたしは右手の友人の存在を思い出した。
 また、わたしを救ってくれたのだ。
 右手をそっと撫ぜる。
 友人の余韻があるような気がした。

 右手の友人が嫉妬している、と気づいたのは、何人目かの彼が出来た時だった。
「お前の傍にいると、危ないんだよ」
 恐ろしいものを見るような目で、彼は言った。聞くに、わたしの傍にいると、急に道路に押されたり、ホームで腕を引かれたりするらしい。
 わたしはようやく、どうして今までの彼が自分から遠ざかったのかを理解した。
「初めはお前がふざけてやってんのかと思った。けど、違うよな」
 違う。わたしは必死に首を振った。それで彼はますますわたしをバケモノ扱いして、逃げていった。

 右手の友人の存在について、わたしは誰かに話したことがない。
 というのも、子供の頃、母に話してさんざん馬鹿にされたせいであり、人に理解を求めるほうが無理なのだと、わたし自身悟ったせいでもある。
 それでも伝えておくべきだった、と思うのは、今更なのかもしれない。
 社員旅行の出発の旅客機に乗り損ねたのは、やはり、右手の友人のおかげだった。
 目覚ましがいつの間にか止められていて、腕を引っ張られすぎてタクシーにも乗り損ねた。幹事が電話の向こうで呆れつつ、後から来なさいと言った、それが最後だった。
 旅客機は墜落して、誰も助からなかった。
 わたしは自分を責めた。
 何かが起きるかもしれないとわかったはずなのに、わからなかった。
 仲の良かった同期も少し憧れていた先輩も、愛嬌のある社長も、みんな死んでしまった。
 泣いて泣いてぼろぼろになったわたしの右手に、そっと誰かが手を置いた。真っ暗な部屋の中、顔をあげても、わたしはひとりだった。
 わたしは、また泣いた。

 そんなこもごもを聞いて、それでも君が好きだと言ってくれた人がいた。右手の人も一緒にお嫁においで、と言ってくれた。
 少し、光が差した気がした。わたしは幸せだった。
 こんなに幸せでいいんだろかと思ったのは、バージンロードを渡るまでだった。
 父から、新郎へ、わたしの右手が渡される。
 けれど、わたしの右手に新郎が触れることはなかった。
 差し出されたわたしの右手は宙に止まった。
 なにが起きたのか、しばらく理解できなかった。
 新郎は、とても優しかったあの人は、落ちて来た教会の十字架に貫かれて死んでいた。
「どうして、どうして……」
 わたしは、真っ暗な部屋の中で泣いていた。泣いて泣いて、泣いた。
 右手に誰かがそっと触れる。わたしは、夢中ではねのけた。
 おろおろとしたように、とまどいがちに、また誰かが右手に触れる。わたしは叫んだ。
「どこか行ってよ! わたしに構わないで!」
 とまどうような気配がした。それでもわたしは泣き続け、もう顔をあげたりはしなかった。

 その日から、右手になにかを感じることはなくなった。
 ぼうっとホームに立つ。
 今さら遅い、とわたしは思った。
 大事なものはなにもかもなくしてしまった。
 もっと早く気づけばよかった。
 電車がホームにやってくる。わたしはぼんやりとそれを眺めた。
 ふらふらと、足が向かっていたのだと思う。
 右手を、誰かに掴まれた。
「触らないで!」
「馬鹿、危ない!」
 怒鳴ったら、怒鳴り返された。生身の人間だった。
 それでわたしは我に返った。
「大丈夫か、あんたどうし……」
 助けてくれた大学生が声をかける。まだ警戒しているのか、わたしの右手を掴んだままだ。
 右手に伝わる感触が、違う。
 たったそれだけのことで、わたしはぼろぼろと泣いていた。

 それが嬉しかったのか悲しかったのか、わからない。
 あの頃のわたしは、ひたすら泣いていた。
 それでもどうにか死なずに済んだのは、あの日わたしを助けた大学生がその後も親身に話を聞いてくれたおかげだと思う。行きずりの女の話を信じた彼は、やがてわたしの伴侶になる決心をした。
 二度目のウェディングドレスは、どこか懐かしかった。
 心から微笑めないのは、前の人のことがあるからだろう。わたしの心はまるで落ち着かなかった。
 右手をさする。大丈夫、なんの感触もない。
 テラスにそっともたれかかる。本当にいいのだろうかと、不安だった。
 新郎がわたしを呼ぶ。
 返事をしようとした矢先に、右手を引かれた。
 懐かしい感触。
 わたしの身体が、宙を飛ぶ。
 右手を誰かに掴まれている。
 いつの間にか、わたしと同年のように成長した手。
 やっぱり。
 その感触に、わたしは心のどこかで安堵していた。
 右手の友人は、消えてなどいなかった。
 テラスに駆け寄った新郎の姿が、遠ざかる。
 最後に見たのは、広がるドレスの裾と、青空、わたしから飛び散る血だった。
 地上に落ちたわたしの右手には、手の形をした痣がくっきりと残っていた。


 わたしの右手には、友人がいる。
 生れ落ちた時からの、永遠の伴侶でもある。


【右手の友人 完】
2009.5.9
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