クリスマス特別編 「A cross day」



 NYの冷え切った夜にイルミネーションが映える。今日という日の為に飾り立てられた街路樹やイルミネーションのサンタがあちこちから顔を覗かせた。
 早足で歩いている英雄の吐息が白く濁っては街並みに消えた。マフラーの暖かさに顔を埋める。マージの手縫いだというプレゼントは、柔らかな匂いがした。
「ダイアナさんによろしく」
 やんわりとホームパーティーへの参加を断られ、退路を絶たれた。そのことを思い出した英雄が苦い顔をする。ハンズスもドアの向こうで驚いた顔をしていた。
「英雄ったら、これからダイアナさんとデートなんですって」
 微笑みながらマージがドアを閉めた。一体裏でどんな取引がなされたというのか、ドアの前でしばし立ち尽くしたのは、つい先刻だ。
「なんだって、僕が」
 毒づいたところで仕方がない。ダイアナはすでにレストランで待っているはずだ。いつものようにレストランの名を告げて電話は切れた。拒否権はあんたにはないのよと言わんばかりの対応にも慣れてしまった。どうせ行かなければ、あることないこと騒ぎ立てられるのだ。平穏な生活のためのささやかな犠牲だ、と英雄は己を説得した。
「クレバスがいればなぁ」
 約束があると出かけていく後姿を複雑な思いで見送った。これから、一緒に過ごすのは難しくなりそうだと、妙な感慨が押し寄せる。
 クリスマスソングが街の至るところから聞こえる。おもちゃ屋の前では恰幅の良いサンタが子供達と写真を撮っていた。
「裏道でも使うか」
 溜息をつきながら、角を曲がる。
 そこに現れた光景に、英雄は絶句した。
「……え?」
 呆然と見上げる、その空中に身を躍らせた男の姿があった。落ちているのではない。高く、高く、ビルよりも――およそありえない高さに跳躍している。
 それより何より。
 その男が相対している、相手。
 人ではないのが一目で知れる。
 黒ずんだ皮膚に、額から突き出た角。赤い口は頬まで裂けた、恐竜のようなモンスター。月よりも邪悪な光を宿した瞳が英雄を写した。
「ばっか、あぶね!」
 男が叫ぶ。日本人、だろうか。その言語に聞き覚えがあった。白と黒の着物を着ている。男の長い漆黒の髪が、イルミネーションの合間になびく。そこだけ闇に切り取られたかのように、光が消える。
 モンスターの大きな手が英雄に向かった。殺意を持っているのは明白だ。
 瞳を瞬かせる間に、彼が考えたことは三つある。
 これ、アトラクション?
 しかし、男の額から流れる血は本物のようだった。うっかりステージに踏み込んだかと思ったが、周りに観客らしい観客もいない。
 じゃあ本物? 悪いジョークだ。
 瞬間、彼は薄い笑みを浮かべた。
 クレバスがいたら大喜びしそうだな。でも、ダイアナは――
 実にコンマ数秒の中でそれだけの思考をし、彼はすみやかに銃を抜いた。


 クリスマス特別編 「A cross day」


 モンスターから飛び散る緑の血は、どうやら強酸性のようだった。それを浴びたサンタのオブジェが瞬く間に溶けていく。
「とんだ聖夜だ」
 言った英雄がビルの陰に飛び込んだ。咆哮を上げたモンスターは、しかし、倒れなかった。どうやら銃はあまり効かないらしい。嘆息した英雄が、弾を詰め替える。
「余計なことしやがって、あの野郎、血眼で貴様を探してるじゃねーか!」
 いつの間にやら先ほどの男が隣にいた。どことなくダルジュと口調が似ている。その額にも角が生えていた。
「いいや、言わせろよ飛車丸、この馬鹿は……」
 英雄が目を丸くしている間にも男が言い募る。と、思った瞬間、男の首ががくりと落ちた。
「……失礼を致しました」
 次いで、顔を上げた男の表情が違う。英雄は目を見開いた。
 別人かと思うほどに穏やかだ。額の角も失せている。
「余計なことをしたみたいだ。じゃ」
 手短に告げて、英雄はその場を去ろうとした。関わるのはよろしくないと全神経が叫んでいる。その警告に、彼は素直に耳を貸した。
 背を向けた瞬間、女性の悲鳴が響いた。
「いかん!」
 男が駆け出す。
 瞬間、葛藤した英雄の背を、「ママー!」という少女の叫びが後押しした。
「くそっ」
 あれが何かもわからないのに、手を出すなんてどうかしてる。
 叫びそうになる自分をどうにか抑えながら、英雄は通りへと飛び出した。
 モンスターが母子に襲いかかろうとしているのが見える。男が手にした朱棍を操って、モンスターに挑んだ。それを援護するように撃つ。瞬間、男が驚いたように振り返った。
「行くんだ! 早く!」
 英雄が母子に叫ぶ。我に返った母親が、慌てて娘を引きずっていった。
 男の朱棍を受けたモンスターが叫ぶ。咆哮を上げながら、モンスターはのけぞった。その姿が次第に透明になってゆく。街のネオンを透かすように薄く、薄く……やがてモンスターは夜の闇に完全に溶け込んだ。
「逃がしたか」
 男が無念そうに告げる。
「それ、日本語?」
 英雄が言う。通じたのだろう、男の瞳が瞬いた。
「ええ」
 そうか、と英雄は頷いた。幸いと言うべきか、英雄のレパートリーの片隅に、その言語も名を連ねている。
「なるほど。僕の養父は日本かぶれだった。君のファッションを見たら喜ぶよ」
 さっきのオニも、と英雄が告げる。
「オニ、だろう? 日本のモンスター」
「いかにも」
 男が微笑んだ。
「私の名は飛車丸。今より遠い時代で鬼退治をしております。先ほどの鬼は、夜鬼。時と空間を操る鬼です。私を引きずり、このような世界にまで参りました」
 あれを倒さねば元の世界には戻れぬのです、と飛車丸は言った。
「そりゃ大変だ。まあ、頑張って」
 無責任な激励と共に、英雄は背を向けた。飛車丸がその背に向けて頭を下げる。
 英雄はこれはこれでいい話の種になると思った。
 角を曲がった先に、再びそのモンスターが現れるまでは。


 足を止めたのは、英雄の直感だった。
 戦場に身を置いた者だけが知る、違和感。それを感じたのだ。
 目をこらすと、街並みがかすかに揺らいだ。透明な膜でも通しているようだ。
「なん……」
 瞬間、殺気を感じた英雄が横に飛ぶ。英雄の傍らに立っていた街灯が真ん中からへし折られた。
 折ったものが、徐々に姿を現す。
 黒い爪、濁った皮膚、そして。
「さっきの……!」
 英雄が言うと同時にオニと目が合った。咄嗟に駆け出そうとする矢先、その拳が英雄に向けられた。
 思いのほか速い。
 避けきれないと目を瞑る。途端に、衝撃音が辺りに響いた。
「やはりな」
 飛車丸と名乗った男が、そこにいた。
 英雄の前に立ち、朱棍でオニの拳を避けている。
「夜鬼は執念深い鬼。傷を負わせた貴方を許せぬようだ」
「いい迷惑だ」
 率直な感想を英雄は告げた。すっと周囲に目を走らせる。表通りには人が溢れている。幸い、まだ英雄たちに注意を払う人間はいないが、それも時間の問題だろう。パニックになれば厄介だ。
「夜鬼よ、時を渡る鬼よ。再三の忠告も主には届かぬか」
 頼みの綱の男は、この期に及んでモンスターに話しかけている。英雄は神経を疑った。
「なにしてるんだ」
「説得を」
「無駄だと思うけど」
「諦めては終いです」
 クレバスと気が合いそうだ、と英雄はのんびりした感想を持った。夜鬼は力を緩めてはいない。朱棍が小刻みに震えているのがその証だ。ギリギリと歯を食いしばるほどの力を、飛車丸は受け流しているのか。
「無辜の民に迷惑をかけてはならぬ。守れるのならば、主を封じはすまい」
 目を細めた夜鬼が、身を引いた。飛車丸が安堵した瞬間、その体が透けていく。
「また逃げるぞ!」
 英雄が銃を抜く。飛車丸が手を広げてそれを止めた。
「お気遣い無用」
 すでにこちらの友人に手助けを頼んだのだと、飛車丸は言った。
「友人って」
 時代も違うと先ほど告げた、あれは嘘だったのか。
 瞳を瞬かせる英雄の傍に、先ほどおもちゃ屋にいたサンタが寄って来た。派手なイルミネーションで飾り立てられたそりに乗っている。立派な角をつけたトナカイが英雄のコートをつついた。
「ん?」
 振り返った英雄に、サンタがにこりと微笑みかける。
「あ、今……」
 制止しようとした英雄の前で、サンタが白い袋をどかりと路上に置いた。その瞬間だった。
 アスファルトの地面が輝きだした。サンタの袋を中心に、黄金色の光が広まっていく。道路、街路樹、信号はもちろん、ビルの壁まで輝きだした。景色に溶けかかっていた夜鬼の動きが止まる。
「わあ、すごーい!」
 子供たちが周りを見回して叫んだ。
「夜鬼は、闇に溶け逃げます。闇がなければ逃げられぬのも道理」
 飛車丸が朱棍を構えた。
「残念だ」
 言う傍から朱棍を振るう。夜鬼の体が大きく膨らんだ。瞬間、弾けた夜鬼の体から、無数の流れ星が夜空へ駆け上がった。
「すごい、すごーい!」
「きれーい!」
 きらきらと輝く地上と、降り注ぐような流星の大群に、道行く人達は皆足を止めた。
 英雄も呆然と空を見上げる。頭痛がするのは気のせいか。
「……どうなってるんだ」
 まさか本物、とサンタを振り返る。英雄の視線に気づいたサンタは、にこりと笑うと、英雄にプレゼントを手渡した。小さなブーツの中に、ぎっしりとお菓子が詰まっている。
「いや、僕は子供じゃな……」
「少年だった頃の君には、一度も手渡せなかった」
 サンタの言葉に、英雄が絶句する。
 来てほしいなんて思ったこと、一度もない。
 ……本当に?
「志ある者は、皆、友です」
 飛車丸の声に英雄は振り向いた。飛車丸の体が、薄らいでいく。
「鬼の力も消えるようです。世話になりました」
 飛車丸が頭を下げる。英雄は曖昧な笑みを浮かべたまま、小さく手を振った。
 最後の流星が落ちると同時に、飛車丸の姿は消えた。あれほど輝いていたビルも道路も、元に戻っている。クリスマスソングが流れ、イルミネーションも確かに輝いてはいるのだけど。
 英雄は夢でも見ていたような感覚に陥った。頬を掻こうとして、手にプレゼントを持っていたのを思い出す。
 小さなブーツを掲げた英雄は、少し微笑んだ。コートから携帯を取り出す。かける先は決まっていた。
「ダイアナ? 僕だ。ああ、今向かってる」
 話しながら英雄は歩いていた。先ほどまでとはうってかわって歩調が軽い。
「きっと君は信じないだろうけど、今、僕は面白い経験をしたよ」
 英雄が言う。少年のように興奮した声に、ダイアナは耳を傾けた。


【クリスマス特別編 「A cross day」・END】




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