暗闇の童話

2月へ | モクジ

  1月 闇夜のカラス、飛ぶ。  

 私が生まれたのは暗闇の中だと父は言いました。
 月夜の無い、真っ暗な晩に、私は母の命を吸い取って産まれたのだと。
 ハハとは何、と聞くと、父は答えました。
 私はハハなる存在と言うものを知りませんでしたから、多分その時小首を傾げたと思います。長く伸ばした黒い髪がさらりと流れ、それが父の何かを揺さぶったようでした。
 父は、私の白い首に手を伸ばしました。

 ぽきり、という弱く小さな音が、私がこの世で出した最後の声でした。

 動かなくなった私の傍にいた父は、自分も魂を抜かれたようにその場に座り込んでいました。私の髪と瞳が黒いこと、病的なまでに白い肌、細い首があたかも折ってくれと囁きかけていたのだと嘆いていました。
 父はそのまましくしくと私の傍で泣き暮らしました。
 食事もせず、動こうともせず、やがて冬が来る前に、父は私の隣で満足そうに死んでいました。
 私には、不思議でした。
 私がここにいるのだから、父も来るものだと思っていたのに、父の姿はどこにも見えませんでした。暮らし馴染んだ洋館を駆け回ってあちこちを見ました。父の書斎、広い居間、螺旋階段のある吹き抜けのロビーは私のお気に入りでした。ふかふかだった絨毯は今も変わりありませんが、うっすらと埃が積もって赤がくすんで見えます。私の部屋、トイレ、お客様の部屋、どこを探しても父の姿はありませんでした。
 おとうさん、と私が呼んでも、答えませんでした。
 洋館のどこにも私に答える声はありません。
 嗚呼、真実一人になってしまったのだと、私は途方に暮れかけました。
 半泣きになりながら、お気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱き、私は洋館を彷徨っていました。最後に着ていた白のワンピース、そろそろ着替えたいのに、どうしてだか脱げない。それもまた私の悲しさに拍車をかけました。
 泣きながら洋館を歩いていた私は、そこに扉があることに気付きました。
 ハハの部屋。
 生前、父はこの部屋に入ってはならないときつく私に言いました。お父さんの大切な思い出なのだ、壊さないでおくれと。
 入ってはいけないと言われたその部屋に、父の姿があるかもしれないと思ったのです。
 しかられても、そこに父がいればいいと思いました。
 扉を開けると、ヒュウと風が吹きました。窓が開いているのです。
「やあ」
 そこにいたのは、父ではありませんでした。
 見たことも無い、人です。私より大きく、父よりはるかに若い。着ているその服は、漆黒を思わせる闇色でした。
 父はいないか尋ねると、ここにはいないようだとその人は言いました。
「君の家だったんだね、お邪魔しているよ」
 ここで何をしているのか尋ねると、その人は言いました。
「彼女の美しさに魅せられてね。ぜひ近くで見たいと思ったんだ」
 そう言って満足げに目の前の人形を見ました。人と同じ程度の大きさの、お姫様のような人形でした。白い服はウェディングドレスというのでしょうか。伏せた長い睫が、どこか私に似ているような気がします。
「ハハ…?」
「ご覧、月の明かりが彼女の美しさを際立たせている」
 病的にね、と人形の青白い頬を見ながら、その人は言いました。
 整った顔立ちで、かしこそうな人でした。どこか独特の雰囲気があるように思えるのは、月の明かりせいでしょうか?
 あなたは死神か、と聞くとその人は笑いました。
「僕はただの高校生だよ。やはり、少し病的かもしれないがね。死者に惹かれる、哀れなものさ」
 真っ黒な服は学ランだと教えてくれました。
 あなたには死神の鎌がとてもよく似合いそうだと言うと、「そいつは光栄」と言ってまた笑いました。
 誰かの笑顔を見るのは、久々でした。
「三橋だよ。三橋康弘」
 ヤスヒロはそう言って私に名前を教えてくれました。ヤスヒロ、と言うと「そうそう」と頷きます。
 私は、父を探しに来たはずの私は、いつの間にか父を探してなんかいないことに気付きました。
 ヤスヒロと話をするのが楽しかったのです。父以外の人間と話したことのない私にとって、ヤスヒロの言葉はひとつひとつが新鮮そのものでした。
「まだ、小さかったんだね」
 ヤスヒロが瞳を細めてそう言いました。私は確か8つ程度だったと自分の年を数えると、ちょっと眉を寄せたような気がします。
「ずっとここにいるの?」
 勝手に外に出ようとすると父が怒るのだと言うと、「もうお父さんはいないんじゃない?」とヤスヒロは言いました。確かにそうかも知れませんが、やはりどこかに隠れているかもしれません。いつものように、外に出ようとした私の脚を掴み、部屋に押し込め、電気を全部消して暗闇を作るかもしれませんでした。私がもじもじしながらそう言うと、ヤスヒロはわかったと言いました。
 それから、ひょいと窓枠に手をかけます。
「そこの木を伝って入ったんだ。雨戸は壊させてもらったよ、また補修しておかなければ、彼女の美しさが太陽に攫われてしまうな」
 大工道具はどこにあったか、と呟きながら、ヤスヒロは木に手を伸ばしました。それから、思いついたように私を振り返ります。
「暇?」
 こくり、と私が頷くと、ヤスヒロは胸のポケットから何かを出しました。白く分厚い表紙を持ったそれは、白紙の絵本でした。
 私が不思議そうにヤスヒロを見ると、ヤスヒロは木の枝に中腰の姿勢になったまま説明しました。バランスを取るのに苦労しているのか、ぐらぐらと揺れる様がおかしくて、私は少しだけ微笑みました。
「その本に、好きな話でも書けばいい。気が紛れるだろう」
 私は、話らしい話に触れたことがないのだと言うと、ヤスヒロは言いました。
「じゃあ、君の話を書けばいい。洋館に棲む病んだ父親、薄幸の美少女、年取らぬ母、随分イカしたアイテムが揃ったものだ。さぞかし愉快な童話になるだろうよ」
 ぺらりと表紙を開くと、やはり雪原のような真っ白なページが現れました。私は嬉しくなって、ポッケに入っていたクレヨンで絵を描き始めました。
 そんな私の様子を見ていたヤスヒロは、「また来るよ」と言って枝からひょいと飛び降りました。
 学ランが夜空に舞って、その姿は、まるでカラスのようでした。 



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