2月 悲劇の傍観者
壊した雨戸を直し、ついでに出入りできるように小さな取っ手をつけて、ヤスヒロは満足そうに額の汗を拭いました。月の光を受けたとんかちの鉄の部分が、鈍い光を放っています。
「僕は本来労働向きじゃないんだが、まあ、これで彼女が朽ちることもなかろうよ」
ヤスヒロが大きな人形を振り返りました。
「静寂と日陰を好む、素敵な人だね」
青白い肌に、長い睫を伏せたその顔を愛おしそうに見つめます。それから、私に向けて「君のその、折れた首もかわいいけどね」と言いました。
ヤスヒロのくれた真っ白な絵本に、私が闇夜に飛ぶ真っ黒なカラスを描いたのだと言うと、ヤスヒロはちょっと変な顔をしました。
「それが僕だって?」
ふうん、と頷いて、ヤスヒロはじっとその絵を見ていました。
ヤスヒロは夜になると必ずここに来るけれど、多くを語ることはありませんでした。ヤスヒロがお気に入りの人形(ハハ?)の前で、床に座って無言で見つめていることが多いのです。私も黙ってヤスヒロの隣に座っていました。壊れかけて、適当に補修された不恰好な雨戸から月が覗いていました。ハハを見つめるヤスヒロの横顔、その輪郭が綺麗に浮かび上がって、眼鏡が月光の光を弾いています。真っ黒な髪も、瞳も、学ランというやつも、靴も。やっぱり全身真っ黒なヤスヒロはカラスのようでした。
「君はもっといろんなところを見るといいよ」
ヤスヒロはそう言って立ち上がりました。夜明け前に帰ろうとするなんて、珍しいことです。私が見送りの為に立ち上がると、ヤスヒロは唇に人差し指をつけて沈黙を促しました。
「おいで。世界を見せてあげる」
ヤスヒロは洋館の外ではなく、中へと向かいました。ハハの部屋の扉を開けると、「腐臭がするね」とヤスヒロが目を細めます。あっちで、私の父が朽ちているのだと告げると、「なるほど、道理だ」と納得したようでした。私が指差した方向とは逆方向に踵を返します。
「どうだろう、外からだとこのあたりだったが」
言いながら、ヤスヒロは二つ三つ過ぎた先の部屋の前で立ち止まりました。父の書斎部屋です。父はよくここで本を読んでいました。時折、私を膝に抱えて私の髪を撫でながら、やはり本を読んでいました。
私がヤスヒロの学ランの裾を握り締めると、ヤスヒロはちょっとだけ私を見ました。
「失礼」
ヤスヒロが扉を開けると、閉じて膿んでいるはずの空気は軽く、流れていました。私は父がそこにいるのかと思いました。
部屋が生きている!
壁中を覆った本棚も、樫の木で出来た父の机も、籐で編まれた椅子も、机の上に置かれた読みかけの本さえ、そこに息吹を感じさました。
「見事なものだ」
蔵書を一瞥したヤスヒロが言いました。わくわくする私をよそに、机の上に置かれた本を手に取り、埃を払う――その仕草で、私の夢は壊れました。
ぱらぱらと落ちる埃が、歳月と帰らぬ父を告げたのです。
がっくりと肩を落とした私を見て、ヤスヒロは本を元に戻しました。
「見てごらん」
そう言って、屈みこみます。本棚と壁の隙間に、紙くずが落ちていました。落ちている、というより押し込められているようです。紙くずを取ると、そこに穴が開いていました。風が吹く。外が、見えるのです。
外だ、というとヤスヒロが笑いました。
「通り行く人が見えるだろう。ここなら、逆に向こうからこちらが見えるということはない。先ほどの部屋は、僕が雨戸を締めてしまうからね。昼間退屈になったら、ここから外を覗けばいい」
だけど、とヤスヒロは言いました。
「傍観にはそれなりのリスクがある。嵌ってはいけないよ」
リスク? と私が聞くと、ヤスヒロはどう説明したものかと言いかけて、「丁度いい」と穴の外を歩く人を指差しました。パーカーを着た男の人が、女の人の後ろをゆっくりと歩いていました。
「彼を知ってる?」
ヤスヒロに聞かれ、私は首を振りました。
「僕も個人的に知っているわけじゃない。ただ、真夜中に散歩に出るとよく見かけるね。僕から見れば彼は立派なストーカーだが、彼から見れば僕はただの変態だな。一緒にするなと憤慨するだろう。悲しいことに、相互理解はできないかもしれない。
ああ、話がそれたね。
多分、大学生かな。僕の先輩かもしれない。詳しくは卒業生を調べてみなければわからないが、学校で何度か噂を耳にしたこともある。
内気、なんだそうだよ。しかし、そんな彼が恋をした。
想いを告げることはない。ただ彼女の姿を見ていたい――と後をつけている。夜道も彼女が危なくないよう、家に明かりがつくまで見届ける。必ず五十メートル離れている、というのがまた泣かせるじゃないか。世間では、ストーカーと言うがね」
確かに、男の人の前には女の人が歩いていました。
「見ているだけで満足、という人間は非常に稀有だ。それもまた、常人には理解しがたい。理解者が少ない、というのはそれだけで悲劇の要因になる」
ヤスヒロが目を細めました。
私が、どこがいけないのかと訪ねると、ヤスヒロは意外そうな顔をします。
「傍観者たる君に分かれと言うのも無理な話だったかな。まあ、いい。見ていてご覧、すぐに幕が降りるよ」
ヤスヒロが再び穴を指差すので、私はその小さな穴を覗き込みました。ヤスヒロは、私の半透明な体を通して、その穴を見ているようでした。
男の人は、女の人の後をつけて、ずっと歩いていました。
女の人が早足になれば、自分も早く。遅くなれば、ゆっくりと。
やがて、「いい加減にして!」と叫んだ女の人が走り出しました。
「あ、あぶない……」
男の人はそう言いました。小さな声で、でも、確かに。
女の人が十字路に飛び出した瞬間、猛スピードでトラックがやって来ました。
「悲劇のスポットライトが彼女を照らす。
なぜなら、彼女は主役。彼は傍観者に過ぎない。
舞台にあがると言うことはすなわち――」
ヤスヒロの言葉が終わらないうちに、駆け寄った男の人が女の人を突き飛ばしました。
闇夜に浮かぶ、凶悪なまでに白いヘッドライトがくっきりと男の人を照らします。
一瞬、私と男の人の目が合ったような気がしました。
直後にけたたましいクラクションと、鈍い音がして、男の人はどこかへ消えました。車が走り去る、その後におびただしい量の血がまるで引きずられているかのように道路に跡を残しています。女の人は腰が抜けたようにその場に座り込んでいました。
「見ていれば、舞台に上がりたくなるものだ。だが、間違えてはいけない。舞台は見るもので上がるものではない。覚悟が、ないならね」
ヤスヒロが走り去ったトラックを追うように顔を上げました。
「削られながら連れて行かれてしまったかな」
残念だ、とヤスヒロが言うと、それに答えるように父の籐で編んだ椅子がキイと鳴りました。
「来たのか」
見ると、そこにさっきの男の人が座っていました。呆然と、生気のないひどく青白い顔で、力なくぐったりとただ座っていました。
カラカラと、音がしました。
その人の力なく開いた口、その目と手の先からもカラカラと音をさせながら、黒い帯状の何かを次から次へと溢れさせています。
ひとつ取り上げて、月の光に透かしたことで、私は初めてその正体を知りました。
フィルムです。
先ほどの彼を見た、恐怖と安堵がないまぜになった彼女の姿が映っていました。
「図らずも舞台に上がった君が、また傍観者に戻る、ということか」
ヤスヒロが言うと、その人は一瞬だけヤスヒロを見て、また虚ろに視線を漂わせました。力のない空洞のような瞳は、それでもしっかりと彼女に続く洋館のほころびを見続けています。彼の目に映った彼女の姿が、またフィルムに刻まれて部屋の中に溢れました。
からから、からから。カラカラ、カラカラ。
「それは返したほうがいい。彼の大切なものだよ」
いつまでもフィルムを持っていた私に、ヤスヒロは言いました。
「君の退屈しのぎにしようと思ったのに、彼の特等席になってしまったね」
君には別の楽しみを用意しなくちゃね、僕にはその義理もないが、と言ってヤスヒロは伸びをしました。
ヤスヒロと一緒に部屋を出る瞬間も、その人は振り向こうとはしませんでした。
彼女との想い出が、ただカラカラと音を立てて、部屋に静かに満ちていきました。
私は、あんなに誰かを見続けたことはないし、誰かに見られ続けたことはない。
父は私を束縛したけれど、手元に置くだけで見続けはしなかった。
私が、今、見ているのは……
折れた首を傾けながらヤスヒロを見ると、ヤスヒロは少しむっとしたように言いました。
「見続けるのはやめたまえ」
僕は主役になる気などどこにもないのだよ、と。だって、他に見るものがないと言うと、ヤスヒロは困った顔をして、それから名案だと言うように「彼でも描けばいい。邪魔をしないように、そっとね」と私にクレヨンを握らせるとさっさと帰っていきました。
私が彼を描く間、彼はただの一度も振り向きはしませんでした。
ただ、からからと彼女との想い出をフィルムにしたためて、そこに捨てていた。
【暗闇の童話 2月 悲劇の傍観者】