暗闇の童話

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  3月 曖昧模糊な君が好き  

 名前と言うのはとかく形を作ってしまって良くないのだとヤスヒロは言いました。
「主張が激しすぎていけない」
 私が名乗ろうとした矢先のことです。
 もう何度もこの洋館を訪れて、私より主らしいヤスヒロは、勝手知ったると言わんばかりに雨戸を開けて入ってきました。真夜中のまあるい満月、夜の風と共に、ほのかに梅の香りが漂います。
「もう春だよ、ほら」
 ヤスヒロがどこかから手折ってきた梅の花をハハに捧げました。色の白いハハに、黒を含んだような紅の梅はよく似合っています。花弁が白いウェディングドレスに落ちるのを見て、ヤスヒロは血のようだねと囁きました。ハハが答えることはありません。
 寂しくないのかとヤスヒロに尋ねると、ヤスヒロはわずかに不快そうな顔をしました。
「僕が彼女を愛でるのは」
 ヤスヒロは言いました。
「彼女を何一つ知らないからだ。ここにある死体としての彼女しか知らない。
 どんな声で話し、何を見て笑い、そして涙したのか。僕にはまるで興味がないし、想像したいとも思わない。
 彼女を覆う沈黙のベールは秘密の内に全てを葬り去り、何人にも触れることを許さない。
 幸い、君も彼女のことは知らないようだ。君がもし、彼女を知っていて、生前の彼女のことをべらべらしゃべられたらと思うとぞっとするね。興ざめこの上ない。
 彼女の美しさが損なわれてしまうよ」
 話すらしたくないのでしょうか。それでいいのかと私が聞くと、ヤスヒロは呆れたように肩をすくめて見せました。眼鏡のふちが、月光を反射します。
「僕は沈黙を愛する」
 私にはこんなに話すくせに、と思うとおかしくなりました。私はあまり人と話す機会がなかったけれど、ヤスヒロは父と比べてよく喋べるような気がするのです。
 沈黙を愛するヤスヒロにあわせて、私も黙ってみることにしました。
 しん、と静まり返った真夜中の洋館。月光を受けたハハは、真っ白なウェディングドレスを着て、梅の花を髪飾りにしたまま、俯いています。床に座ったヤスヒロは、満足そうにそれを何時間でも見つめていました。
 かつて、父もそうしていたのでしょうか。
 ヤスヒロの横顔を見ながら、そんなことを考えていると、私の視線を感じたヤスヒロの眉間にわずかに皺が寄りました。
「……僕を見るな、と前に言わなかったかい?」
 仕方ないな、と呟いたヤスヒロがため息をついて、そして言いました。
「君はまだ子供だ。沈黙が退屈に感じるだろうね」
 私がうなずくと、ヤスヒロは目を細めました。
「以前、僕と似た嗜好の変態に会ったことがあるよ」
 彼は医者だったと言いながら、ヤスヒロはハハを見ました。
「外科医師として、彼はとても優秀だった。
 彼は、瀕死の患者を手当てするのがとても好きだった。自分の手で、治っていくのが嬉しくてね。徹夜だろうがなんだろうが、自分の労力など厭わずに患者につきっきりだった。医者はまさに天職と言って良かった。
 彼の悲劇は、治った患者には用がないところかな。
 まあ、病院なんて、治ったら患者側も用はないところなんだがね。
 彼はそこそこ顔も良かったし、治療中はそれは親切丁寧に接するものだから、女性の人気も高かった。
 独身だと言うのも輪をかけたかもしれない。
 だから、中には熱烈なアタックをかけた患者もいた。そして、彼は結婚した。奥さんになった女性は、とても気立てが良く、そして一生治らない病を抱えていた。僕が思うに、彼はそこに惹かれたのだと思う。治らないのなら、僕が面倒を見ようとね。まあ、一般的に言って心がけ立派。僕流に言わせるなら、嗜好合致おめでとう、かな。
 彼らの生活はとてもうまく行っていたのだと聞く。
 歯車が狂ったのは、ある日、奇跡が起きてしまったからなんだ。
 原因不明で生涯治らないと言われた、奥さんの病が治ってしまった。周りが浮かれ喜ぶ中で、彼はひとり絶望した。愛していると思った彼女への想いが、見る間に消えていくのを感じていた。健康体な彼女に用はなかったんだ。
 それでも、彼は彼女を愛しているフリをし続けた。
 彼女は、彼のからっぽな愛に気付いていた。
 ある日、偶然花瓶を割って、破片で足を切った時、彼女はまだ彼の心を繋ぎとめる術があるのだ知った。熱心に自分の治療をする彼は、かつて彼女が愛した彼の姿そのものだったから。また、彼も心底喜んだ。青ざめて、助けを求める彼女の姿こそ、かつて彼が愛した彼女そのものだったから。
 そして、彼女はわざと怪我をするようになった。
 その度に、彼は熱心に治療をした。
 ある時は階段から落ち、ある時はわざと刃物を自身に当て……彼女は怪我をし続けた。体がつぎはぎになっても、骨を削っても、最後に、車に撥ねられて意識を失うまで。
 彼女が担ぎこまれた病院で、彼は彼女を看病し続けた。
 彼女は今も目覚めない。そうなることで、彼の心を独り占めしてしまった。
 けれど、彼が愛しているのは助けを求める患者であって、彼女ではない。

 なぜなら、彼は彼女の名前すら僕に言えなかったのだから」

 幸せな話だろう、とヤスヒロは言いました。
「僕らが愛しているのは状態であって個ではない。君には理解しがたいだろうね」
 それを聞いて、私は急に思い出しました。
 私はまだヤスヒロに名乗ってすらいなかったのです。
 私が名前を言おうとすると、ヤスヒロは静かに私を制して、言いました。
「君が名乗れば、僕はもうここには来ないよ」
 私は喉まで出かかった自分の名前を慌てて飲み込みました。
「君がそこにおぼろげに佇んでいられるのは、僕が君の名前を知らないからだ。体が半透明なのは、この際お洒落だとでも言おうか? 僕は迂闊にも、初対面時に君に名乗ってしまった。だから、君には見えるだろう?」
 そう言ってヤスヒロは微笑みます。
「僕と言う存在の境界と限界が」
 自分の輪郭を見るように、ヤスヒロは言いました。
「僕は君の名前を知らない。だから、君は枠に捕らわれない。君と言う曖昧さが、僕は好きなんだよ」
 ヤスヒロの冷めたような表情が、本当に私の名に興味がないのだと告げていました。



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