7月 嘆きの壁
この暑さは死体の敵だなと言いながら、ヤスヒロは雨戸を開けて入って来ました。夏の太陽の光が室内を照らす前に、素早く締めます。
「ここはまるで氷室だね。空気が涼んでいる」
クーラー要らずだよ、と息をついたヤスヒロは、そこの佇むハハを見ました。
「彼女の美しさが損なわれなくて何よりだよ」
それから、ヤスヒロはくるりと室内を見渡しました。陽光を拒絶した暗闇の空間。
「こんな場所を他にも知ってる」
ふう、とまだ熱のこもった息を漏らしながら、ヤスヒロは腰を下ろしました。私が見上げているのに気付いたのでしょう。ヤスヒロは、私を見ると、表情も変えずに言いました。
「聞きたい?」
私が頷くと、父に折られた首がぶらんと揺れました。
「あるところに男がいた。
彼は大抵のものを持っていなかった。ただひとつ、山の中で見つけた扉を除いては。
それは忘れられた廃工場だった。どこに惹かれたのかと言えば、自分と同じく誰にも構ってもらえないところだったのかもしれない。そのくらい、彼は孤独だった。
電気も止められたその場所は、暗く、空気が淀んでいた。ほら、丁度この部屋のように。
建物に寿命があるとすれば、もうその工場も死期を迎えていたんだろう。彼はその死臭に魅せられたのさ。そして、等しく朽ちていく感覚に安堵さえした。
彼はそのまま、その工場で一人静かに死のうと思った。
そこまでは全然問題はなかった。彼は誰かを恨んだりしようとは思わなかったんだ。全ての人間が彼に興味を持たなかったのと同じように、彼もまた世間に対して何も求めようとはしなかった。
けれど――」
ヤスヒロは言いました。
「変化が訪れた。彼の工場に女が迷い込んだ。
ハイキングに来て迷ったのだと言う女は、休息と食料を求めた。彼は応じた。
女は言った。ありがとうと。彼の目を見て微笑んだ。
瞬間、彼の体に電流が走った。
知ってしまったのさ、欲の味を。
自分を見てくれる、話してくれる。彼にとって、それはまさしく衝撃だった。
そして、彼は思った。
彼女を、どこにも帰したくない――」
その瞬間、彼にとって自分の死はなかったことになったらしいとヤスヒロは呟きました。
「彼の工場には頑丈な扉を持つ部屋があった。女にここで休むといいと告げて、彼は扉を閉めた。
女は彼を疑わなかった。
扉が閉まる。それが女の人生の終焉の合図だった。
その扉は開かない。
なぜなら、開けば女は逃げてしまうから。
想像してごらん。絶望も歓喜も飲み込んだ暗闇の空間を。紡がれる呪詛は、自分への愛の言葉だ。
他の思念など何一つ混じらず、ありったけの憎しみを込めて、心を一色にどす黒く塗りつぶして、……自分のためだけに、女が変わる。彼にとってそれは歓喜だった。
誰にも認められなかった彼のことを感情を込めた瞳で見てくれる。
彼は、それが嬉しかった。
誰かになにかの感情を込めて見られることなど、一度もなかったのだから。
女にしてみれば、災難極まりない話だ。けれど、彼は満足した。
やがて絶望と悲嘆に暮れながら女は死んだ。
彼は再び訪れた孤独に耐えられなかった。町に降り、女を攫っては閉じ込めた。そして、女が狂い死んで行くのを見ていた。
彼は女を看取る瞬間が好きだった。
食べるものも尽き、怨嗟の声も枯れ果てた頃、彼は扉を開けた。弱りきって抵抗する術もない女を抱き上げる。女がうつろに自分を見る――彼だけを。
恍惚の瞬間は、しかし、女の言葉によって砕かれた。
『……おかあさん……』
ある者は、母を。
ある者は、恋人の名を。
そこで息絶える者は皆、心の奥深く、大事にとってあるその名を呼びながら、果てていった。
彼の名は、どこにもなかった。
当然さ。彼は女に名乗ってすらいない。最も、名乗ったところで呼ぶ人間がいるとも思えないがね。
深い孤独がまた彼を包んだ。女達の最後の視線すら、自分をすり抜けているのだと知った。
彼は探している。今も探している。自分だけを映し、自分だけを呼ぶ者を。
呪詛と怨嗟を込めた扉を今日も閉めながら、己の孤独を思い知るのだ」
ヤスヒロは言いました。
「いい悲劇だろう? 絶望色の嘆きの壁だ。閉じ、開いても、救いはない。
あの場で彼が一人静かに朽ちた方が、女にとっても彼にとっても幸福だっただろうに」
まったく、とヤスヒロが眼鏡のフチを指先で上げました。
「希望なんてものがあるから、この世の悲劇が終わりはしない。まあ、だから僕は退屈せずにすむのだがね」
ヤスヒロの醒めた目線の先に、その扉があるような気がしました。
少し錆びて、重そうな扉。
女達の呪詛と怨嗟に混じって、誰にも認められない怪物の、枯れることのない涙のあとがこびりついているのです。
【暗闇の童話 7月 嘆きの壁】