暗闇の童話

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  6月 断罪の花嫁  

 闇の中、雨音がせわしなく窓を叩いています。
 まばらな街灯が、ついたり消えたりしながら、紫陽花を艶かしく照らしていました。
 こんな夜にはヤスヒロもこないだろうと、私はハハの部屋でくつろいでいました。今まで描いた絵を眺めながら、寝転んで足をぱたぱたと泳がせていると、突然激しい物音がしました。
 ガタガタと雨戸を揺する音は、それまでの静寂に比べてひどく大きく聞こえました。私が手にしていたクレヨンを落とすほど驚いたのも、そのせいです。
「やあ、ひどい雨だ」
 雨戸をこじ開けて、ヤスヒロがその細身をすべりこませました。
 窓が開かれたことで、雨音が一層激しく聞こえます。意思を持ったような雨の激しさに、紫陽花の葉が小刻みに震えているのが、ヤスヒロの肩越しに見えました。
 声も出ない私と、何も言わぬハハを見て、ヤスヒロは一度頭を振りました。水滴が部屋中に飛びます。塗れた髪を困ったようにかきあげながら、ヤスヒロは言いました。
「傘は差してきたんだがね。流石に木に登りながらは無理で」
 曇ってしまった眼鏡を真っ黒な学生服の袖先で拭くと、神経質そうな顔をしながらかけ直しました。それでも、すぐに曇ってしまいます。私が指差して笑うと、ヤスヒロは憮然としながらまた眼鏡を外しました。
「体温のせいだよ。僕が、暖かいから」
 そう言って、ハハと私を見ました。
 ぽたり、とヤスヒロの前髪から雫が落ちます。
「ぬくもりは得てして幸せの象徴となる。なぜか?
 体温を感じさせる“あたたかさ”とやらは、“生”を暗示するからだ。その証拠に、幸福の象徴に“冷えている”とは言わない。冷たさは“死”に繋がる。今、君が体温を失ったように」
 ぽたり。また雫が流れ落ちました。今度はヤスヒロの顎のラインから、ぽたり。
「だから君らは、そして僕も、見事に病んでいるというわけだ」
 まるで自分が暖かいことを嫌悪するかのように、ヤスヒロは自分の手を見つめました。指先が震えているのは、寒さのせいでしょう。
 黒い学生服が、水を吸ってさらに深い艶を放っていました。
「幸福か」
 ヤスヒロが顔を上げました。花嫁姿のハハを見ながら、ずり落ちるようにその場に座ります。
 どこかヤスヒロらしくない所作でした。
 ヤスヒロはいつだって毅然としていて、なんだかそのだらけたような座り方も、ハハを見つめる視線も、普段の観察するような目とは違うような気がしました。
「六月は、ジューンブライド。多くの女性が憧れる姿だね。
 緑の芝生、教会のチャペル、祝福と賛美の声の中心にいるのは自分だ。女性が最も輝く瞬間でもある……」
 相変わらず綺麗なままのハハの姿に、ヤスヒロが目を細めました。
 外の雨は雷雨に近いのに、ハハは瞬きすらしませんでした。いつもと変わらぬ笑みを湛えたまま、綺麗なドレスを纏っています。
 私はなにか欲しいと思ったことはありませんが、やっぱり、こういうドレスを一度は着てみたかったかな、と思いました。
 花嫁さん、花嫁さん。
 私がクレヨンを手にとって花嫁の姿を絵本に描き出すと、ヤスヒロの瞳が瞬きました。
「そうか、君も女性だったね。古今東西、花嫁をモチーフにした話は事欠かない。それほどまでに魅惑的なテーマだとも思えないが、やはり多くの人が関わることのできる人生の一大イベントだからこそ、心を駆り立てるものがあるんだろう。ま、君にはどうでもいいことだろうが」
 しばらくなにか考えたように沈黙したヤスヒロは、穏やかな声で告げました。
「そうだね。参考までに、とあるランプの話をしようか」
 私が大いに頷くと、父に折られた首が、ぶらんと揺れました。
 ヤスヒロが、再びハハを見上げながら口を開きます。低いとも高いともつかない、ヤスヒロの深みを持った声が、洋館の暗闇の中に吸い込まれていきました。
「断っておくが、僕は無機物に感情があるとは考えない。
 けれど、その意思をまざまざと感じざるを得ない時がある。往々にして、人が介在しているものだがね。わかった途端に興ざめだな。
 さて、話を本題に戻そうか。
 そのランプは、とある結婚式場にある。
 いつでも幸福なカップルを照らすのが自慢だった。今宵最高だと言われる花嫁の肌を照らしているのは自分だと、ちょっとばかり誇りに思っていたのさ。
 多くの花嫁は、少し泣いて、幸福に笑って自分の元を通り過ぎて行った。
 だが、その花嫁は違った。
 少し俯きながら、誰かを待っていた。
 ランプは知っていた。
 式の前に新郎と二人だけの誓いをする人間もいるのだ。
 式の間はぎこちない二人が、誰もいない教会でのびのびと誓う姿を見るのは、ランプも好きだった。
 やがて赤い絨毯を踏みにじるようにして現れた待ち人は、花嫁の腹にブーケを刺して出て行った。
 花嫁が倒れる時、ブーケの花がフラワーシャワーよろしく散ったそうだよ。赤い血が、薔薇のようだったと。
 ランプは見た。風のように立ち去った待ち人の後に駆けつけた新郎の嘆きを。
 花嫁の死に顔をはっきりと照らす光。
 それもまた自分が放っているのだと、ランプはランプなりにショックだったようだ。
 話はそれで終わるはずだった。花嫁は永久に失われ、新郎は彷徨ったまま。
 誰も幸せになんてなれないが、まあ、現実なんてそんなものだろう。
 事件が起きたのは三年後。
 かつて花嫁を失った新郎が、新しい相手を花嫁に迎えようとした時のことだった。
 同じ式場を選んだのは、新しい花嫁だったと聞く。
 喝采に包まれるはずの会場は、しかし静寂に凍りついた。新郎ですら、その場に立ち尽くした。
 幸福そうに笑う花嫁。白いはずのドレスが、ランプの光が当たると一変した。
 燃えるような紅蓮に――」
 花嫁がそれに気付くと、今度は血のようなシャワーが降ってきたそうだよ、まあこれはどう考えても尾ひれだろうがねと言いながら、ヤスヒロは私を見ました。絵本の中の花嫁さんが白い服を着ているのが不服そうです。ハハとおそろいなのに。
 私が譲る気がないのを察したのでしょう。ヤスヒロは小首をかしげながら、ハハを見ました。
「種明かしは簡単。
 花嫁の紅のように赤い血が、ランプについていたそうだ。時を越えてなお乾くことなく、艶かしい光を放ちながらね。自分を殺した相手を暴露したわけだ」
 まだ外は雨が激しく降り続いていて、外灯がまばらに光っているのが、ここからでもわかります。
「光は、希望。それ故に激しく罪を糾弾する」
 ヤスヒロは真っ暗な洋館の中を見ました。扉が、キイと音を立てて開きます。
 廊下の奥から、わずかな腐臭がしました。
「ご覧、断罪の明かりだ」
 ヤスヒロの声に答えるようにシャンデリアが灯り、朽ちた父の姿を一瞬だけ照らしました。


【暗闇の童話 6月 断罪の花嫁】
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