獣−ビースト!−

【2】


 懐かしいものだ、とケルト王子は満月を見上げながら考えました。
 ふらふらと丘に迷い込んだ獣を保護するのは、王の役目です。王冠を携えた者にだけは、夢幻花の威力が効かないのだとフクロウ博士が教えてくれました。
 あの花に魅せられることはもうないのかと思うと、ケルト王子は少し残念な気持ちになりました。
 熱を含んだ風が、頬を撫でます。
 今日はもう寝ようかとケルト王子が立ち上がった時、雷牙が転がり込んで来ました。
「ケルトォ」
 真夜中だというのに、口の中いっぱいに果物を詰め込んでいます。それでもケルト王子には、雷牙が何を言っているのかがわかりました。
「ムーアが、ムーアが」
 ぶんぶんと雷牙が腕を振って指し示す、それは夢幻花の丘でした。
 ケルト王子の顔色が変わります。
 すぐにケルト王子は駆け出しました。
 ムーアが何を見ているのか、ケルト王子にはわかる気がしました。
 西の蛇が現れた時に、少しだけ聞いた、ムーアの家族の話。
 けれど、夢幻花の見せるものは、幻なのです。
「馬鹿が……!」

 体を少し前に傾けると、足先に力が加わります。駆け出す力は心より強く、早く。
 ケルト王子は夜の王城を駆け、夢幻花の丘へと辿り着きました。

 あの夜と同じように、空にはぽっかりと満月が浮かんでいました。
 夢幻花の白い花弁が、夜空へと舞い上がっていきます。
 その只中に、ムーアの姿がありました。
 立ち尽くすその向こうに、ぼんやりとした人影が見えます。
 ひとつ、ふたつ、ムーアの腰くらいもない、小さな影がひとつ。
 夢幻花の花粉で白く彩られた人影に、ケルト王子は目を細めました。
 ゆっくりと足を踏み出し、ムーアに近づきます。
 ムーアがあの幻に向かって駆け出したら、すぐにでも取り押さえるつもりでした。
 けれど、ムーアは動きませんでした。
 ケルト王子が近づいても、隣に立っても、少しも動こうとはしませんでした。ただずっと人影を見ていました。
「おい」
 ケルト王子が声をかけました。
 ムーアは笑っていました。あるいは泣きそうなところを、こらえているようにも見えました。
「……うん、大丈夫」
 ムーアは言いました。
 自分の家族に向けてだと、ケルト王子は気付きました。
「けっこー楽しくやってるんだ」
 精一杯笑ったムーアが、くるりと幻に背を向けました。自分の足でしっかりと、丘を降りていきます。
 その背を見送ったケルト王子は、もう一度丘を見ました。
 白く茫洋とした人影が、まだそこにいました。
 あれは、幻です。
 けれど、ムーアの家族なのだとケルト王子は思いました。
 人影に向かって静かに頭を下げると、人影もゆっくりとおじぎをしました。それから、さらさらと夜に溶けていったのです。


 翌朝、ムーアはなんだか頭痛がすると言って不思議がりました。
「馬鹿が。禁止区域である丘に立ち入るからだ。自業自得だろうが」
 ケルト王子が毒づくと、ムーアは雷牙を指差しました。
「あのなぁ、言っとくけど先に入ったのはコイツだぞ! 白い花粉吸い込みながら丘に行きやがって! 連れ戻そうとしたら」
「お前が花粉にやられたわけか。めでたい男だ」
「なんだとぉ!?」
 上半身を起こしたムーアは、すぐに情けない声を出して寝床にうずくまりました。ムーアの体に向けて、ケルト王子が木の実を投げ捨てます。
「フクロウ博士からもらった実だ。夢幻花の毒冷ましにいいらしい」
「ありがとよ」
 ムーアが顔をしかめながら木の実を口にしました。苦い、と文句を言いながらも噛み砕きます。
「ムゲンカ、っての。オレなんか見たのかな。全然覚えてねーや」
「くだらん幻だ」
「雷牙ねー、ごはん!」
 元気良く手を上げた雷牙を、ムーアとケルト王子は目を丸くしながら見ました。
「そういや、お前なんともねーのか?」
 ムーアが恐る恐る雷牙を指差します。
「う?」
 雷牙が不思議そうに首を傾げました。
 ケルト王子がこほんと咳払いします。
「助けを求めに来たのが雷牙だ。感謝するんだな」
「なんだとぉ?」
 ムーアが絶叫しました。
「おかしいだろ! 絶対! このやろ」
 雷牙の口をムーアがひっぱります。抗議する雷牙の声を聞きながら、ケルト王子はふと外に目をやりました。
 昼間の丘は、夢幻花の花弁が閉じているため、一面の緑です。
 その中に、一瞬、グフ王の姿を見た気がして、ケルト王子は微笑みました。

【森の王国 醒めない夢路・完 2006.11.22】
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