獣−ビースト!−

森の王国 醒めない夢路

【1】


 熱帯である森の王国の空に、まぁるく大きい月がぽっかりと浮かぶ。そんな夜には、夢幻花(ムゲンカ)が王城の裏の丘一面に咲き乱れます。
 夢幻花の花弁は白く、淡い光を放っています。香りは甘く、一斉に花咲くその姿は、白い光の洪水のようでした。
 ケルト王子は、一度だけその丘に足を踏み入れたことがあります。
 物心ついた頃、どうして父親であるグフ王と自分は姿形が違うのかと乳母のシマウマに訊ねたことがありました。シマウマは優しい目を細めて言いました。
「ケルト王子、あなたは人間の子です。やがて森の王になる者として、生まれて間もなくグフ王の下にやってきたのですよ」
 その言葉は少なからずケルト王子に衝撃をもたらしました。
 自分とグフ王は違うのだ、では、自分のお父さんとお母さんはどこにいるのだろう。
 それまでケルト王子のそばにいたグフ王も、侍女のガゼル達も、森の獣が皆、自分から遠ざかる気がしました。獣達が持つ爪も牙も、ケルト王子にはありません。
 真夜中の王城を、小さなケルト王子が裸足で歩いていると、森で一番物知りなフクロウ博士が声をかけました。
「王子、王子。どこに行かれるのです」
 ケルト王子は顔を上げました。その表情が今にも泣き出さんばかりであるのを、フクロウの夜目はよく捕らえていました。
「おとうさんと、おかあさんにあいたい」
 ケルト王子は言いました。
 フクロウ博士は困った、というように首をぐるりと一周させました。
「おとうさんと、おかあさん」
 鸚鵡返しに答えて、それはオウムの仕事だと思い直したフクロウ博士は、もう一周首を回転させると、胸を張って答えました。
「王子のおとうさんは、グフ王ですよ」
「知っている」
 ケルト王子は答えました。
 森で一番大きくて、強いグフ王は、ケルト王子の自慢でした。金色のたてがみがふさふさと風になびいて、時に強く咆哮するあの大きな口は、ケルト王子と話す時はたまらなく優しい声を出すのです。ぴかぴかの爪に触らせてもらったことも、忘れてはいません。
 ケルト王子は、グフ王が大好きです。
 だから余計に、自分にたてがみがないことやぴかぴかの爪がないことが、悔しくてなりませんでした。
「知っている」
 唇を噛み締めて、ぽろぽろと王子が涙をこぼすと、フクロウは慌てて飛び上がりました。翼をうるさいぐらいに羽ばたかせて、ケルト王子の周りを飛び回ります。
「王子、王子、泣かないでください」
 それから、ふと閃いたように、叫びました。
「夢幻花の丘があります。あそこなら、きっと」
「ムゲンカ?」
 ケルト王子が首を傾げました。
「王城の裏にある、丘です。一面に咲く花の名を、夢幻花と言います。
 夢幻花は、その人の望む者の姿を見せてくれるのです。そして――」
 フクロウ博士の説明が終わらないうちに、ケルト王子は丘に向かって駆け出しました。
 ずっと王城で暮らしていたのに、裏の丘にだけは足を踏み入れたことはありませんでした。グフ王から、立ち入ってはいけないと言われていたのです。
 その日、まぁるい満月がぽっかりと浮かぶ夜に、ケルト王子は夢幻花の丘に立ちました。
「わぁ」
 ケルト王子の口から、思わずため息が漏れました。
 真っ暗な森の夜、その闇を白く埋め尽くす花々。
 花弁は白く淡い光を放ち、空へと舞い上がっていきます。
 どこからともなく胸に満ちる甘い香りに、ケルト王子はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていました。
「……きれい」
 森の花々はいつでも色鮮やかで、ケルト王子の目を楽しませてくれました。夢幻花もまた、夢幻花だけが持つ色香を以ってケルト王子を迎えます。
 ケルト王子は、ゆっくりと丘を進んでいきました。
 花の絨毯が途切れることなく続くのを見て、なんだか嬉しくなりました。
 夜の暗さと、夢幻花の白さを楽しんでいたケルト王子は、その人影に気付きました。
 丘の向こうに、誰か立っています。
 ふたり。
 男性と女性が、ぼんやりとした輪郭のまま、立っていました。
 誰が教えなくても、ケルト王子にはわかりました。
「おとうさん、おかあさん……?」
 花々がざわりと揺らいで、ケルト王子に答えました。ケルト王子が駆け出します。
 幼い足が、土を蹴ったその瞬間でした。
「ケルト!」
 野太い声と共に、ケルト王子を捕まえた腕がありました。
 あたたかな毛皮、ふさふさのたてがみ。
 ケルト王子が見上げると、グフ王は目を細めて笑いました。
「フクロウ博士が飛んできた。お前がこの丘に行ったと」
 全くあの人は、とグフ王は喉を鳴らしながら、ケルト王子の手を引いて夢幻花の丘を進みました。
 ケルト王子のおとうさんとおかあさんが立っていた、その場所に辿り着きます。
「見てごらん」
 グフ王は優しく言いました。
 なおぼんやりと佇んでいる人影を気にしながら、ケルト王子はグフ王が指し示したところを見ました。
 人影の少し手前に、ぽっかりと大きな穴が空いていました。深さは夜の闇と同じぐらいで、底がちっとも見えません。
「夢幻花は、幻を見せる花だ。死者の魂を呼ぶとも言われるが、わしは会うたことがないの。わかるか、ケルト」
 暗闇を見つめるケルト王子に、グフ王は言いました。
「幻を見せ、獲物を捕らえ食う花だ。侵入者用に王城の裏に咲かせている」
「はい」
 ケルト王子は答えました。
 ぼんやりとした人影がまだそこにいるのを見て、なぜか涙があふれました。
 あれは幻なのです。
 ぽろぽろと涙を流すケルト王子の頬を、グフ王の大きな舌が舐めました。
「おとうさんとおかあさんには会えたか」
 ケルト王子はびっくりしました。
 フクロウ博士はそんなことまでグフ王に伝えたのかと、驚きます。それを察したグフ王は、静かに首を振りました。
「なぜわしがわかったのか、か? 簡単なことだ」

「わしもここに来たのさ。子供の頃、やはり両親に会いにな」

 そしてその時の先代の王だった人間は、やはり顔色を変えて飛んできたのだとグフ王は言いました。
「わしのような爪も牙も無い人間が、それこそ必死の形相で剣を携えてやってきた」
 嬉しかったなぁ、とグフ王は遠くを見るように言いました。
 その横顔を見ていたケルト王子も、グフ王が見ている方向を一緒に見ました。
 夢幻花の花が、吸い込まれるように夜空に消えていきました。
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