DTH

 閉館時間まで読書を楽しんだセレンが、図書館を出る。司書が扉を閉めると同時に、学生がひとり、駆けてきた。茶色の髪を編み上げ、ゆったりとしたワンピース、マーゴットだ。
「ああっ、待って……!」
 マーゴットが閉まった扉だけを見つめて走る。両手にはあの日とは別の図書館の本が抱かれていた。
「もう閉館だ。あきらめたらどうだ」
 通り過ぎざまにセレンが声をかける。
「え?」
 マーゴットが足を止めた。振り返ると、セレンの背を見て、目を見開いた。
「セ、セレンさん?」
 セレンは足を止めなかった。セレンと図書館とを見比べたマーゴットが、手にした本に視線を落とす。司書が閉めたカーテンの音が契機になったのだろう、マーゴットがセレンに駆け寄る。
「セレンさん!」
 一度瞬きをして、それから至極満足そうに笑うと、セレンはようやく振り向いた。
「私に――何か用か?」
 罠に嵌った、とでも思ったのだろう。マーゴットは一瞬憮然とした顔をした。
 自分を睨む瞳が清廉さを残している。穢れを知らない者の目だ。セレンはそう思った。
「別に、用なんてありません」
 声などかけるのではなかったとマーゴットが視線をそらす。
「そうか」
 セレンは頷いて歩き出した。長い銀髪が風になびく。
 ふわりと漂うそれを見たマーゴットが目を細めた。ぎゅ、と抱いた本に力を入れる。
「……あなたは、ずるい人です」
 セレンの後を追いながら、マーゴットは告げた。歩幅の違いだろう、歩くセレンに対してマーゴットは小走りになる。
「私が? なぜだ」
 歩調を緩めることなくセレンが聞いた。
「誰にも興味がないなら、どうしてそれを貫かないんですか」
 手を出さなければ、誰も傷つかないとマーゴットは言った。走り続けているせいで、息がわずかに上がっている。頬が紅潮しているのはそのせいか怒りなのか判別がつかなかった。
「勝手に寄ってくるだけだ」
「そんな、ひどい……!」
 非難するようなマーゴットの声に、セレンはぴたりと足を止めた。悠然と振り返り、マーゴットを正面から見る。
「自覚がないなら、言ってやろうか。声をかけたのも、追いかけてきてたのも、お前だ。私ではない」
 マーゴットの瞳が見開いた。
 一番聞きたくなかった言葉を聞いたかのように、体が震える。小さな肩が小刻みに震えるのを見て、セレンは目を細めた。
「私は……」
 マーゴットが本を抱きしめる。そうすることで、自分を支えているかのようだった。
 もう一度その唇が開けば、彼女は堕ちる。
 セレンがそう確信した瞬間、二人を囲む影があった。狭い路地の前後、左右、ご丁寧にいくつかのビルの屋上にもお仲間がいるようだ。
 突如として沸いた襲撃者達に、セレンは驚きも見せなかった。真っ黒な装束に身を包んだ男達の素性は知れない。詮索するだけ無駄だ――セレンの瞳に好戦的な光が宿った。
 数は十に満たない。この程度で、自分を仕留めようと言うのか。
「なんです! あなた達は!」
 マーゴットが一歩前に出る。崩れかけていたはずの彼女は、もう自分を取り戻したらしい。その後ろ姿を半ばあきれながら見つめたセレンは、マーゴットの肩に手を伸ばした。そっと触れ、引き寄せる。
「女は無関係だ。行かせてやれ」
 自分からそんな言葉が出るとは思わなかった。マーゴットが驚いた顔でセレンを見上げる。その大きな瞳に自分が映るのがなぜか不快で、セレンはマーゴットと体を入れ替えると、その背を押した。
「行け」
 振り向かずに告げる。
 マーゴットの視線が自分の背を見ているのがわかった。
 やがて歩き出す。一歩、二歩。セレンから遠ざかっていく。それでいい、とセレンは思った。
 セレンの指先から奏でられるように鋼糸が現れる。
 唇に不敵な笑みが刻まれる。襲撃者が地を蹴ったのは、ほぼ同時だった
「セレンさん!」
 響く声に、セレンは耳を疑った。
 マーゴットが、セレンの前に躍り出る。セレンに向け放たれた弾丸をその胸で受け止めた彼女は、セレンの腕の中に倒れこんだ。
 その瞬間、自分の胸が確かに打った鼓動をセレンは聞いた。
 セレンが視線を上げる。指先を広げる。繰り出された鋼糸は風を紡ぎ、間違いなく襲撃者たちの息の根を止めていた。

 セレンはマーゴットを抱き上げた。胸に開いた傷口から、血が溢れ、彼女のワンピースを汚した。セレンのシャツにその血が滲んでも、セレンは気にしなかった。
「あなたは、そういう世界の人だったのですね」
 マーゴットは告げた。途切れる息の合間に、セレンに手を伸ばす。
 頬に触れる。
 セレンは好きにさせた。眉をよせ悲しみを表すのでも、死ぬなと叫ぶわけでもなく、淡々と彼女の死を見守った。手遅れだとわかっても、涙すらわかない。
「そうだ」
「だから、誰も求めないのですか?」
「わからないな」
 ただこの心になにも沸かないのだとセレンは言った。先ほど確かに感じた鼓動が嘘のように、今はなにも感じなかった。
「愛してると、嘘でも言ってくれれば、救われる女性もいるのに」
 まるで独り言のようにマーゴットは呟いた。友人の姿でも思い描いているのだろう。瞳が懐かしさに満ちていた。
「この先も、一生使わないつもりですか?」
 セレンは答えなかった。答える言葉を持ち合わせていない気がした。
「可哀想な人……」
 マーゴットは微笑んだ。その表情が消えていく。マーゴットの腕が、力なくセレンから離れた。
 憐れみをこめた彼女の笑みは、誰に拾われることも無く夜の闇に消えた。


 翌朝、マンションに戻ったセレンを迎えたのは、心底うんざりと言った顔のダルジュだった。
「なんだよ、セレン。昨日いきなり呼び出したかと思ったら死体片付けろなんてよ!
おまけに自分はどっか行っちまうし。誰だよ、あの黒服のヤツラ」
「知らんな」
 およそ建設的な答えを期待していたわけではなかったが、こうも淡々と返されると脱力する。ダルジュはいらつきを押さえて、別の質問に切り替えた。
「どこ行ってたんだよ」
「別に」
「別にじゃねぇよ!」
 セレンはさして面白くもないというように答えた。
「死体を埋めてきただけだ。いつものことさ」
 本を閉じ、外を見やる。
 遠く続く街並みの向こう、スモッグの彼方にあの森がある。
 昨夜、マーゴットを埋めてきた森だ。襲撃者達の始末はダルジュに任せても、あの死体だけは自分で埋める気になった。
 森がいい。
 なぜかそう思った。
 あの森は少し遠出になるが、湖もあり、綺麗な場所だ。静けさが彼女に相応しい。
 車の助手席にマーゴットを横たえて、そう言えば車に女を乗せたのは初めてだと妙に感心した。
 
 辿り着いた森は静謐を保っていた。適当な場所に穴を掘る。掘った穴にマーゴットを座らせると、セレンは一息ついた。
 月光がマーゴットの顔を照らす。閉じた睫が意外と長いことに、セレンは気がついた。
「これは、返しておいてやる」
 マーゴットが手にしていた図書館の本を片手に、セレンは告げた。
 そのまましばらく、マーゴットを見つめると、首を傾げた。
「私が、女に甘えているのだと言ったな。だから、あの言葉を使わないのだと」
 風が吹く。セレンの銀髪が夜風になびいた。
「お前と共に埋めてやる。感謝するがいい」

 月は冴え、森は静まる。
 彼女の耳に届いた、それは確かな愛の言葉。



【DTH番外2 「ノクターンは響かない」END 2006.7.19-8.5】
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