DTH2 カサブランカ

第1話 「5年目の幻」

 今でも時々夢に見る。
 英雄の優柔不断な笑顔、精一杯の虚勢。
 英雄の年に近づくにつれて、見上げていた背中が近づくのがわかる。
 もしもあの時、オレに力があったなら、結末は変わったんだろうか。
 英雄、オレは今でも聞きたいことがあるんだ。



 夢見の悪さにクレバスは目覚めた。
 NYの英雄の家、いつもの自分の部屋。白い壁にベッドと机が置かれたシンプルな部屋に朝陽が差し込んでいる。
 無言で起き上がって自分の視界に映った手が、夢のそれより大きいことに気づく。それで急に現実感が戻ってきた。
 英雄の死から5年。
 クレバスは17歳になっていた。もう英雄より背が高いだろう。まだあどけなさを残した顔をしかめながら金髪をかきあげる。襟足を伸ばした髪がさらりと揺れた。しばらくベッドの上でそうしていると、階下から朝食を作っているであろう音がする。アレクが起きているのだ。
 クレバスはため息をついて、下に降りていった。

「おはようゴザイマス」
 キッチンでトーストをセットしたアレクがにこりと微笑んだ。相変わらずの長身に、褐色の肌。以前は長く伸ばしていた襟足を切ってショートカットにしたためにかえって若々しく見えて、時折クレバスの同級生に間違われることもある。クレバスとしては「いくらなんでもお世辞だ」と思うのだが、アレクはまんざらでもないようだった。
「おはよう」
 クレバスはあくびを噛み殺しながら答えた。
 今のクレバスの身長はアレクとほぼ同じくらいだ。すらりと伸びた手足で器用に椅子に腰掛けると、アレクが差し出したコーヒーに無言で口をつけた。
「機嫌悪いデスカ?」
「そう見える?うーん、変な夢見た」
 自分をじっと見つめるアレクに、クレバスは言いにくそうに告げた。
 それでもアレクは了承したようだった。「アア、英雄の?」と言ってにこりと微笑む。
 クレバスはカップを傾けたままアレクを凝視した。なぜわかるんだと瞳が告げる。
「わかりマス、クレバスのことなら」
 これだけ一緒にいるんデスカラと、アレクが告げた。
 恥ずかしそうにクレバスがうつむく。自棄になったようにコーヒーを飲み干した。
「アレク」
「ナンデス?」
 にこにこと自分を見るアレクから居心地悪そうに視線をそらしたクレバスは、頬を掻きながら空いた左手でアレクに封筒を差し出した。
「ナンデス?」
「プレゼント」
 顔を赤くさせながらクレバスは言った。
「旅行でもどうかと思って。バイトで金ためたし」
 アレクの瞳が見開かれた。顔中に笑みが広がっていく。
「本当デスカ!?嬉シイ!!」
 アレクが感激したようにクレバスの手をとった。
「店の休み、とれるかな?大丈夫?」
「トリマス、トレマス!絶対大丈夫!」
 興奮しきったアレクはクレバスの手を握ったまま上下に揺さぶった。
 子供のように喜ぶアレクの姿を見て、クレバスはその日初めて微笑んだ。


 昼は花屋、夜はバーという独特のスタイルを持つ店”Green Green”は相変わらずの繁盛振りだった。花に囲まれた店内では、ダルジュがグリーンのエプロンをして新種のユリのアレンジを手がけている。
「はぁ?休みだぁ?」
 手を止めたダルジュが不機嫌そうにアレクを見た。三白眼がぎろりとアレクを映す。
「ハイ!休みマス!」
 初めからダルジュの意見を聞く気がないアレクは満面の笑みで言い切った。
「休むってお前…」
「ダルジュにも旅行アゲマシタ。新婚の」
 ぐ、とダルジュが詰まる。カトレシアとのことを指しているようだ。
「あれは、別に、俺は…」
「まぁいいじゃないか、ダルジュ」
 言いよどむダルジュに助け舟を出したのはセレンだった。変わらぬ端麗な容姿、左目を覆った銀髪は長く、笑みにはどこか余裕が満ちていた。
「どのくらいだ?」
「そうデスネ、3泊4日トカ」
「そのくらいなら1人で大丈夫だろう?」
 セレンがダルジュに振る。
「ああ、まあ、それくらいなら…って”1人”ってなんだよ、セレン!」
「私も出かける」
「はぁ?!」
 ダルジュの抗議に構わずにセレンは立ち上がった。
「好きにするがいい」
 アレクに告げて店を出る。
 ふざけんなと叫ぶダルジュの声は誰に受け止められることもなかった。


 かつて英雄とマージが家族として暮らしていた家では、新たな家族がささやかな生活を営んでいた。あるべき家族の談笑が家の中に響く。それはマージにとってたまらなく幸せなことだった。焼きたてのアップルパイを切り分けるマージの隣でハンズスが紅茶を入れた。
 結婚当初はあまり上手くなかったハンズスの紅茶の入れ方も、最近では様になっていた。
「こっちは大丈夫よ」
「そう、じゃ運ぼうか」
「パパ、だっこー」
 客用のカップとパイをトレイに載せて運ぼうとするハンズスの足に4歳になる娘がじゃれついた。ハンズスの膝丈より少し低い背でつま先を必死に伸ばして、ハンズスのズボンを掴んだ。ふたつに結ばれた栗色の髪がゆらゆらと揺れる。くりっとした目で自分を見つめる娘に、ハンズスはおどけたように微笑んで見せた。
「アリソン、危ないぞ」
「まあまあ」
 言いながらマージがアリソンを抱き上げる。
「パパだっこ〜」
「ごめんな、パパは今お客さんが来ているから。アリソンも一緒にお茶をしよう」
「おきゃくさん?」
「アリソンの好きな人だよ」
 意味ありげなハンズスの笑みに、アリソンの顔がぱっと輝いた。
「クレバスだ!」
「あたり」
「やったー!」
 マージの腕から抜けて、アリソンが床に落ちるように降りた。小さな足でぺたぺたと小走りに居間に向かう。
 その様子を見たハンズスとマージは瞳を見合わせて微笑んだ。
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