DTH2 カサブランカ

「クレバスー!」
 アリソンが元気よく扉を開けると、居間のソファに座っていたクレバスが腰を上げた。
「やあ、アリソン」
 抱きつくアリソンを高々と抱き上げる。アリソンが嬉しそうに歓声を上げた。クレバスにとってアリソンは年の離れた妹のようなものだったし、アリソンにとってもクレバスは兄のような存在だった。
「あ!」 
 アリソンがクレバスの隣に座っていたセレンに気づく。セレンに興味を示したアリソンを、クレバスは床に降ろした。
「こんにちは」
 アリソンを見たセレンが微笑んで丁寧に挨拶をした。アリソンは不思議そうにセレンを見たままだ。
「アリソン、”こんにちは”は?」
 マージがアリソンに声をかけた。ハンズスがセレンとクレバスにカップを差し出しながらアリソンに告げる。
「何度かあったことがあるだろう?セレンだよ」
 アリソンはもじもじとハンズスの足の影に隠れた。
「アリソン?」
「あ、わかった。アリソン、セレンが好きになったんだろ」
 クレバスがからかうと、アリソンは真っ赤になって否定した。
「ちがうもん!」
「どーだかなー」
「クレバス嫌い!」
 ああごめん、とクレバスが謝るのに構わずに、アリソンは子供用の小さな椅子をひっぱってきてセレンの隣に置いた。
「かみ、きれいにするー」
 そう言ってままごと用の櫛を持ち出す。
「アリソン」
 たしなめるように言うマージに、セレンが問題ないと瞳で合図した。
「お願いできるかな?」
「はーい」
 セレンが苦笑しながら束ねていた髪飾りを外す。銀色の長い髪が流れるように広がった。
 アリソンが満足げにセレンの髪を梳かし始める。セレンはお構いなしにハンズスに向き合った。
「で、今回の用件は?」
 セレンの対面に腰掛けたハンズスが尋ねた。天然パーマに分厚い眼鏡、生真面目そうな面持ちは相変わらずだ。
「私はどうでもいいんだが」
「オレとアレクが旅行に行くんだ。で、マージに店手伝ってもらえないかと思って」
 退屈そうなセレンに代わってクレバスが答えた。
「あら、私?」
 ハンズスの隣に腰掛けたマージが驚く。
「セレンも出かけるって言ってるし、ダルジュだけじゃまずいと思ってさ。カトレシアとマージに手伝ってほしいんだ」
「放っておけばいいじゃないか。あいつはあいつでどうにかするさ」
 言ってセレンが紅茶に口をつけた。カップを傾けたままちらりとハンズスを見て、「少しはマシな味になったじゃないか」と呟く。
「お褒めにあずかり光栄で。まあ、日中なら構わないかな?マージ」
「そうね。と言っても本当にお手伝いだけだけど」
 マージが微笑んだ。母になって一層優しさを増した笑顔だった。
「全然助かるよ、ありがとう!」
 クレバスが歓声を上げた。その様子をセレンがまんざらでもないように見つめる。と、ハンズスがアリソンの動向に気づいてぎょっとした。
「アリソン…」
 驚きとわずかな抗議が混じった声に、皆がアリソンを注目した。
 セレンの髪梳きに飽きたアリソンは、その銀髪を結び始めていた。セレンのくせのない髪が実に素直に結ばれていく。場の誰もが凍りつくようにそれを凝視した。
「器用じゃないか」
 穏やかな声で言ったのはセレンだった。
 髪を結ぶことに熱中していたアリソンが顔を上げる。セレンの顔をじっと覗き込んで、アリソンは手を伸ばした。
「かお、はんぶん?」
 セレンの顔の左側を覆った髪をアリソンがその手で上げた途端、アリソンは火がついたように泣き出した。
「おばけー」
「アリソン!」
 ハンズスが慌ててアリソンを抱き上げる。腕の中の娘をあやしながらセレンに詫びた。
「すまない、娘が失礼を」
「本当のことだ。謝る必要もない」
 別段気にするわけでもなくセレンが答える。
 場の気まずさを悟ったのか、「話は終わったようだし帰るか」とクレバスを連れセレンはその場を後にした。


 見送るハンズス達に手を振ってから、クレバスは先に進むセレンに小走りで追いついた。
「待ってよ、セレン。髪からんだままだろ?」
 言いながらセレンの髪に手を伸ばす。
「うわ、固結びだ。止まってくれる?歩きながらだとほどけない」
 クレバスに髪をつかまれたままのセレンが立ち止まった。
「ほどく必要もなかろう?」
 セレンの声がした瞬間に、クレバスが解こうと試みた結び目のすぐ上で髪が切断された。
 陽光を受けてなめらかに輝く糸の軌跡。
 鋼糸、だ。
 驚いたクレバスの手からセレンが自分の髪を抜き取る。そのまま手のひらを広げるだけで、切られた髪が風に乗って流れて行った。
「あまり執着をしているわけではない」
 10センチほどだけ短くなった髪を見ながらセレンが言う。
 クレバスは言葉が出なかった。つかみどころがない、というのはこういうことを言うのだろうか。随分長いことセレンの傍にいるけれど、本心を垣間見たことは数えるほどしかないのではないかとクレバスは思った。
「セレンは、何を大事にしているんだろうってよく思うよ」
「私さ」
 それ以上も以下もないとセレンは言った。
「皆、そうだろう?」 

 

 3日後、アレクとクレバスはペンシルベニア州ピッツバーグにいた。
 ピッツバーグはアメリカ最大の河港を持つ緑多き町で、アンディ・ウォーホル美術館・カーネギー美術館など芸術への造形も深い。
 NYから飛行機で1時間強。旅行には丁度いい距離だろうとクレバスは思っていた。
「エリー湖にはここから車で2時間らしいよ。200キロだって」
「じゃあレンタカーでも借りまショウ」
 都会のような町並みは飽きているので、自然探索をしようというのが今回のテーマだった。
「アア、空気がオイシイデス」
 アレクが嬉しそうに伸びをした。
「喜んでもらえて良かった」
「もちろんデス!」
 アレクが満面の笑みで答える。
 それがまた嬉しくて、クレバスは微笑んだ。
Copyright 2006 mao hirose All rights reserved.