怒っているだろうとは予測したが、タオルを解いた瞬間にヒールで顔面を蹴られるとは思わなかった。英雄が鼻を押さえ込むのにも構わずに、ダイアナは抗議をまくしたてた。英雄が片手を上げて、それを制する。
「待った」
「なによ?」
傍らにあった時計を掴んで投げようと振りかぶっていたダイアナが止まった。こほん、と咳払いした英雄が真顔で告げる。
「僕は僕の取りうるベストを尽くした。抗議される覚えなんか……」
「大アリよ! この馬鹿!」
振りかぶったダイアナが時計を投げる。時計は小気味良い音を立てて英雄の額にヒットした。
家が見えたことで、クレバスはようやく走るのをやめた。歩きながら、息を整える。窓に英雄の姿が見えた。
「英……」
ほっと息をもらして、窓の中に英雄に食って掛かるダイアナの姿を認めた。足が止まる。
なぜ足を止めるのか――。クレバスは自分に驚いていた。
「あら、クレバス」
喉元を通りかけた疑問は、ふいにかけられた声に霧散した。声のした方を見ると、仲良く連れ立ったハンズスとマージ、アリソンの姿があった。
「マージ!」
「久しぶりね」
にこやかにマージが告げた。相変わらずの優しい笑顔に、ロングスカートがよく似合っている。穏やかな雰囲気に、クレバスの心が落ち着いていくのがわかった。
「バスー!」
アリソンが両手を広げながら駆け寄る。クレバスがアリソンを抱き上げた。歓声を上げて喜ぶアリソンを見て、目を細める。
「どうしたのさ、三人そろって」
「英雄が婚約したって聞いたから、おめでとうを言おうと思って」
にこにことマージが告げた。後ろに立ったハンズスがなんとも言えない表情をする。クレバスは以前ハンズスが言っていたことを思い出した。確か、なにがなんでもお祝いしないとと――怒っているのだろうか?
「あー……今?」
ちらりと窓を見やる。ちょうど英雄の額に時計が当たったのが見えた。
「どうだろう」
もめているには違いない。どうしようかと迷っているところで、家の中の英雄と目が合った。
「クレバス!」
額を押さえた英雄が、救いの神が現れたとばかりに窓から身を乗り出す。涙目になっているのは気のせいか。
「英雄」
まずいと思ったクレバスの顔色を察してか、クレバスに抱かれたままのアリソンを見てか、英雄は視線を滑らせた。その先にいるハンズスとマージを見て、窓枠から落ちなかったのはせめてもの理性なのだろう。
「マージ……」
英雄が脱力しきった声を出す。
「お久しぶりね。英雄」
マージはにこやかに応じた。英雄が背中に冷水を浴びせかけられたような顔をする。
「ダイアナさんはいるかしら」
ちょっと誰よというダイアナの声に我に返って、英雄は慌てて窓を閉めた。くるりと室内にいるダイアナを振り向く。
「なによ」
「僕の妹だ」
言いながら英雄は大股に玄関に向かった。はたと立ち止まり、思い出したようにダイアナを振り返ると、英雄はダイアナとの距離を詰めた。至近距離で人差し指を立て、瞳を覗き込みながら念を押す。
「ありがたいことに君を婚約者だと思ってる。君のお陰様様だな。彼女達は一般人だ。巻き込みたくない」
英雄の瞳を見返したダイアナが微笑んだ。勝気な瞳がいたずらっぽく笑う。
「あたしは女優よ? 演じるのは慣れてるわ」
「嬉しいね」
これで貸しひとつ。高くついたと英雄は内心舌打ちした。
「煙草は?」
玄関に向かいながらダイアナが聞く。
「NGだ」
背を向けたまま答えた英雄が玄関のドアノブに手を伸ばす。大きくため息をついて、英雄はドアを開けた。マージと軽く抱擁を交わし、微笑む。
「ようこそ。突然のことだから驚いたよ」
「驚かそうと思ったのよ」
得意げにマージが笑う。英雄は観念した。もうどこにも逃げ場はない。
「あら」
マージの視線が英雄の隣にいるダイアナに向けられる。先ほどまでの怒気はどこへやら、ダイアナは綺麗な笑みを作ってマージを迎えた。
「初めまして」
ダイアナが手を差し伸べる。マージが握り返した。英雄は固唾を呑んで成り行きを見守った。生きた心地がしないというのは、こういうことを言うのだ。
「初めまして。本当にテレビで見るダイアナさんだわ」
マージが微笑む。ダイアナも目を細めた。
「こんなに可愛い妹がいるなんて、彼ったら言わなくて。ひどい男ね?」
「私も。こんなに素敵な婚約者がいるなんて聞いていなくて。本当にひどい兄だわ」
どこか火花が散っているようだとクレバスは思った。にこやかな会話なのに、なぜだろう。通りに立ったまま玄関に近づけないのは無意識に気圧されているからか。
意気投合したのか、ダイアナとマージが連れ立って家の中へと進んでいった。英雄が静かにこめかみを押さえながら、後に続く。
その後姿を見ながら、クレバスは呟いた。
「ハンズス、彼女、依頼人なんだ」
隣で同じく立ち尽くしていたハンズスは分厚い眼鏡をずり上げた。
「知ってる。そんなこったろうと思ったが、マージがね……」
意外な返答にクレバスがハンズスを見る。視線に気付いたハンズスは笑ってみせた。
「あいつがそんな甲斐性ないことくらい、知っているさ。で、なんであんな自分の首絞めるような嘘をついてるんだ?」
「成り行きでね」
「また。馬鹿だなあ」
ハンズスがぼやいた。クレバスが思わず苦笑する。この友人にかかっては、英雄も形無しだ。
「クレバスは? 大丈夫か?」
「え?」
「さっき、ちょっとただ事じゃなさそうな顔をしていたぞ」
どうしたと聞かれ、クレバスは顔から笑みが消えていくのを自覚した。見られていたのか。
「ううん、大丈夫」
何が引っかかったのか、もう忘れてしまった。きっと大したことじゃないのだ。クレバスはアリソンを降ろしてドアを指差した。
「行こう、アリソン。ほら、ハンズスも」
競争だよ、と言われてアリソンは走り出した。転ばぬよう気遣いながらクレバスが開いたドアを押さえる。まるで本当の兄妹のようだと微笑みながら、ハンズスは歩を進めた。
笑っているクレバスを見ると、先ほどの表情はなにかの間違いだったのではと思える。そう、多分自分の思い過ごしだ。ハンズスは自分に言い聞かせた。見間違いだったに違いない。
マージが声をかける直前、家の前で立ち止まっていたクレバスは、帰る家を見失った幼子のような表情をしていた。
第6話 END