ことば日和

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  放課後、+(プラス)  

 授業と授業の間の時間の呼び方は地方によって違うそうだ。
 休み時間、放課。でも、授業が終わった後は決まって「放課後」。
 生徒たちが帰って、私立海星学園高等学校の校舎内はがらんとしている。
 今時珍しい木造校舎のあちこちに陰が落ちた。
 これから、夜までの短い時間。
 それが新橋透(しんばしとおる)と水無瀬夜子(みなせよるこ)の活動時間だった。


【放課後、+(プラス)】

 水無瀬夜子は普段特に目立たない女生徒だった。
 どちらかといえば暗い部類に入るだろう。白い顔と対照的な長いストレートの黒髪が余計にそれを印象付けている。
 それでもまあ顔は良かったから、男子の中でも人気があった。
「ん?」
 透が夜子のそばにその「陰」を見つけたのは2年生の夏休み前だった。
 外が曇っていて雨だったから初めは夜子の影だと思った。
「どうした?透」
 目をこらすと、陰が動いているように見える。なんだろう、あれ。
 話途中だった男子生徒の声を背中に受けながら透は夜子に近づいた。
 夜子は漆黒の長い髪を重そうにたらしながら読書をしている。
 心なしか顔がいつもより白い。

 海星学園ではクラス変更は無い。だから2年になった今ではクラス内の全員が顔見知りだったが、透は夜子にこんなに近づいたことはなかった。
「なにか用?」
 夜子がだるそうに透を見た。
 透はおかまいなしに夜子のセーラー服、右肩すぐ脇のそれに手を伸ばす。

 陰に触れた。

 ぐにゃりと生暖かい感触がしたかと思うとそれは音も無くはじけた。
 瞬間、夜子の顔色が元に戻る。といっても相変わらず白いのだけど。
「うええ、なんだ今の」
 気色の悪い感触に顔をしかめてる透を夜子は凝視した。
 長めの前髪のしたから黒い双眼が品定めをするように透を見る。
「新橋、君」
 確認するように名を呼んだ。
「なんだよ水無瀬」

「放課後、手伝ってほしいことがあるの」



 放課後、終礼のチャイムが鳴って掃除が終わると生徒たちが次々に帰宅しだした。
 この高校に部活は無い。
 そして生徒や教職員が校舎内に残っていることも無かった。
 誰もそれを疑問に思ったことはない。それが当然だと思っていた。
 ここは長くいるべき場所ではない。
 透は掃除の時に使ったモップにあごを乗せながら夜子を見た。
「手伝いってなんだよ」
「運動は出来る?」
「中学のときサッカーやってたよ。それが?」
「よかった」
 夕暮れの外を見ながら夜子は言った。
「もうすぐよ」

 多分――――後に透が思うには――――、夕暮れに混じる闇の割合や、夜の侵食度合いが関係するのだ。
 校舎が瞬く間に異質のものに変わっていく。
 色彩が逆転していくような錯覚を覚えた。写真のネガを見ているみたいだ。
 そしてその黒い部分から、陰が限りなく沸いてくる。
「なんだ、これは…!」
 陰は、さっきの形のない陰とは違いなにかになろうとしているように見えた。
「潰して!」
 夜子が叫んだ。反射的に透がモップで潰す。陰はぐにゃりと砕けて、分散した。
 散ったはしから共鳴しあって再びつながりだす。
「おい、キリがないぞ。なんだこれ、水無瀬!」

 夜子は、笑っていた。
 薄い桜色の唇が綺麗な笑みの形を作っている。
 黒くて長い髪が優雅にたなびいた。
「…水無瀬?」
「夜になるまでの辛抱よ」
 大きな陰が夜子の背後に忍び寄った。夜子は気づかない。
「水無瀬!」
 透がそれにモップを投げつけた。霧散する陰に走りよってモップを引き抜くと夜子を背後にかばう。
「ちくしょう、なんなんだよ!」
 透は陰を潰し続けた。


 時間にして2時間もなかったはずなのに透には永遠に思えた。
 夜が空を満たした瞬間、まるで嘘のようにそれらは消えた。
 後には静かな夜の校舎と透、夜子が残った。
 休みなく動きっぱなしというのはさすがにキツかったようだ。
 透はわき腹を押さえて座り込んでいる。
「あー、くそ。部活やってりゃこんなんじゃなかったのにな…」
 そんな透を夜子はじっと見ていた。
「…かばう必要はなかったのに」
 透が顔を上げた。夜子の表情はうつむいていてわからない。
「馬鹿いうなよ」
 息をきらしたままの透が毒づいた。
「馬鹿いうな」

 満天の星が空に輝くころ、二人はようやく学園を出た。
 透の疲労は激しく、足がかくかくと馬鹿のようだ。
「手伝いってなんだよ、あれか?」
「出来れば毎日残って欲しいわ」
「はぁ!?」
 がちゃりと透は鞄を落した。
 夜子が興味なさそうに立ち止まって、鞄を拾い上げる。
「だって私には潰せないもの」


 それが初めての放課後活動だった。
 終業式の日、夏休みになっても毎日来いと夜子は言った。
「勘弁してくれよ。ってか帰っちまえばいいじゃねーか、俺らも」
 透の提案に夜子は頷かなかった。
 ただ興味なさそうにそうね、と呟いた。
 その日透は帰ろうとした。
 誰もいない放課後の教室で、ちらりと夜子を横目で見る。
 夜子はいつもと変わらないように見えた。さらりと長い髪がゆれて、そのむこうに陰がいた。
「帰るぞ!」
 透が夜子の腕を掴んで走り出す。
 夕暮れが、あの時間がすぐそこに迫っていた。

 校門から一歩出たとき透は助かったと思った。
 なんだかわけのわからないモノを毎日叩き潰していては頭がおかしくなりそうだ。
 と、腕がひかれる。
 夜子が、校門のむこうで立ち止まっていた。
「おい…」
 夜子の後ろの校舎の色が変わる。異質な空気が瞬く間に校庭を侵食し始める。
「水無瀬!」
 腕ごと引っ張った。
 夜子は、夜子もしっかりとその手をにぎっていたのにするりと解けた。
 校門を境に、その世界は閉じた。
「水無瀬!」
 叫びながら透が校門をくぐる。そこにはいつもの校舎が佇んでいるだけで、夜子の姿はなかった。
 声を枯らして名を叫んでも夜子が答えることはなかった。

 数時間後、夜がやってきた。
 校門の前で途方に暮れる透の前に当然のように夜子が現れた。
「おまえ、大丈夫だったのか!?」
「平気よ…」
 貴方が来る前はひとりだったもの、と夜子は告げた。
 夜の闇より黒い髪がさらりと流れる。
「良かったあ、ごめんな。俺…」
 ほっとして泣きそうな顔をする透を夜子は首を傾げてみた。
「どうして貴方が謝るのかわからないわ」
「でもごめん!」
 直角に腰を曲げて謝る透を見て夜子は口の端をあげて、多分微笑んだ。
「…ありがとう」
 小さな小さなその言葉は透の耳には届かなかった。




「あれ、なんなんだろうな」
 夏休み夕暮れを待ちながら透が呟いた。校庭には蝉の声が響き渡っている。
 百円で買える紙パックのウーロン茶(これは絶対にお買い得だと透は思っている)をもうすぐ飲み干すところだ。
 クソ暑い中でも長い黒髪をしばりもしない夜子は汗ひとつかかずに涼しい顔をしていた。
 透がゴミ箱へと投げた紙パックを目で追う。
「よく、食べるのね。さっきパンとジュースを飲んでいなかった?」
「いくら食ってもたりねーよ、育ち盛りなんだしさ。で、あれってなんなんだよ。
なにか知ってるのか?」
 夜子は興味深げに透の顔を見た。
「あなた、変わってるわ。普通その質問は最初に言うものよ」
「お前に言われたくねーよ。仕方ねーだろ。わけわかんなくて今まで来たんだ」
 むくれた透を見て夜子が肩を揺らした。うつむいた拍子にばさりと黒髪が垂れて表情は見えない。
「笑うなよ」
「あら。笑ったかしら、ごめんなさい」
「お前髪切れば?それ、暑くねぇ?」
 暑くなんかないわ――――夜子が顔を上げて透を見た。透の向こうの空の色を推し量っている。
「来るわよ」
 夜子の言葉が終わらないうちに学園が変貌を始めた。
 異質な空気に満たされて、世界が反転する。
 透は脇にあった木刀を握り締めた。修学旅行のお土産に妹が買ってきてくれたものだが、やっぱり断然こっちのほうが様になる。
「モップは止めたの?」
「かっこわるいじゃねーか」
「…似合っていたのに」
 少々残念そうに夜子が呟いた。どこまで本気か透にはわからない。
 世界が急速に変わる、そのための風が吹いた。
 轟音の中で透ははっきりと夜子の声を聞いた。
「あれがなんなのか、私にもわからない。私も知りたいわ。
でも、ただひとつはっきりしている。あれは」
 世界に陰が満ちてそれが生まれてきた。

「良くないものよ」

 いつも透がそれを叩き潰している間、夜子はなにかをするわけではなかった。
 右に左に器用に陰を避けながら透のそばにいる。
 悲鳴をあげるわけでも、手助けをするわけでもなかった。
 ただ、透が思うに、この世界に来ると夜子は変わる。うまく言えないがいつもと違う。
 黒い髪が嬉しそうに揺れる。それを見るたび透はそう思うのだ。
「余所見を」
 夜子の声がしたかと思うと透の前を通り過ぎた。
 そのまま、透に覆いかぶさろうとした陰から透をかばうようにして立ちふさがった。
 陰が夜子を飲み込むように覆い尽くす。
「水無瀬!」
 透が叫んだ。
 陰は散るわけでも肥大するわけでもなく、ただ夜子に吸われるように消えていった。
「…あまりしないほうが良いわ。慣れたころが危険よ」
「お前、なんともないのか」
 ええ、と夜子は頷いた。艶やかな黒髪がさわりと揺れる。
 平然としている夜子を不思議そうに透が見つめた。
「なにか?」
 言葉に棘がある。頬にうっすら赤みがさしている。いいや、そんなことより。
 透は気づいた。違和感の正体に。

 夜子はここに来ていきいきしている!

 昼間青白い肌で具合の悪そうな夜子とは別人のようだ。
 今まで自分は必死だったから気づかなかった。
 この違和感の塊のような反転の世界で、そこにあることが当然のように夜子はいた。
 この世界に、夜子は映えるのだ。



 そして今日も夜が来て異質な世界が終わる。
 しんとした夜の校庭に戻った二人は無言だった。
 透がどかりと座り込んでも夜子は立ったままだ。
 いつもなら疲れたと愚痴を言い出す透が何一つ言おうとしない。
 ただ、思いつめたような怖い顔をしていた。
「水無瀬…なんなんだよ、お前」
 ぴくりと夜子の形の良い眉が動いた。
「私は私。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「俺には…お前とあいつらが同類に見える」
 夜子がなにか言おうとして、やめた。
「…そう」
 透が顔を上げた時、夜子は背を向けて歩き始めていた。
 泣いているのかもしれないと、透は思った。

 それでも透は、もう夕方の学園には行かなかった。



 2学期が始まってしばらくしても夜子が透に近づくことはなかった。
 透もたまに夜子に目をやってはそらす。そんな毎日が続いた。
「なに、透。お前ら喧嘩でもしたの?」
 クラスメイトの児玉が声をかけてきた。お調子者でおせっかいやきだとクラスで定評の人物だ。調子がいいので意外と女子に人気があるらしい。
「誰が」
「お前と水無瀬。1学期中はべったりだったじゃねーか」
 ぶば、と透の吹いたポカリスエットが児玉を直撃する。
「なにするんだお前!」
「お前こそ何言ってんだ!」
 動揺する透をヘッドロックすると児玉は透を教室の隅へと押しやった。
「いや、俺はそれでいいんじゃねーかと思ってるんだよ。水無瀬変な噂もあるし」
ちらちらと夜子を横目で見ながら児玉は小声で囁いた。
「変な噂?」
「なんか見たやつがいるらしいよ。あいつと一緒にいてえらい目にあったらしい」
それは、あれのことか。
 透が目を上げた。児玉は興味があるのだと思ったらしい。
「小学校のときのクラスメイトが放課後に水無瀬といたら変なもん見たって。
それで肝試しみたいなヤツをやってもなにもなかった。その時は水無瀬を呼ばなかった
らしいんだ。けど、中学のとき学園祭でクラスのほとんどが居残ったときがあって…」
 夕闇が来る。世界が反転して、あれが現れる。
「全員なんか見たんだってよ。もーすげーパニックになって」
 けれど水無瀬は
「水無瀬だけが」
 動じなかった――――――。
 当たり前だ。夜子は慣れていた。知っていたのだから。
 透は目を見開いた。なにをしていたのか自分は。
 児玉の声が遠のいていく。



 あれはよくないものだと夜子は言った。
 私は私。それ以上でも以下でもないと。
 それは夜子の呪文。
 唱えなければ手を引かれて連れて行かれてしまう。
 あの日透の手をすり抜けたように、今度はこの世界から滑り落ちるだろう。
 彼らは夜子を招いているのだ。



 夕陽が茜色に校舎を染めた。
 生徒や教職員が帰ってがらんとした教室に夜子はただ一人立っていた。
 またあの時間が来る。
 世界がゆっくりと反転しだした。
 夜子のまわりの黒い影から次々と陰が現れる。
 夜子は興味なさそうにそれらを見た。
 決して夜子に危害を加えてくるわけではない。
 受け入れてしまえばあちらの世界の住人になるのだろう。
 それはとても甘美な誘惑に思えた。
 この世界に絶望したのならそれもいいのかも知れない。夜子は陰に手を伸ばした。
「水無瀬!」
 声と共に陰が弾ける。
 モップを持った透がそこにいた。
「…新橋、君」
 夜子は驚いたようだった。
 小さな瞳を見開いている。幻ではないかと右手で左手の甲をつまむ。ちくりと痛い。
「悪かった!」
 陰を叩き潰しながら透は叫んだ。
「ほんとにマジで悪かった!ごめん!」
 夜子の返答はない。
 透は不安になった。
 陰は次々に沸いてきて際限が無い。
 ぽたりと、反転の世界に光が落ちた。
 透が振り返った。
 夜子の頬をすべるように光が流れて落ちる。夜子の涙だ。
 空中に落ちたそれは輝きを保ちながら床に吸い込まれた。床が水面のように揺れる。
 夜子を中心に、涙の落ちた部分から優しい光が学園に満ちていった。
 光に触れた陰達がゆっくりと溶けていく。
 光に照らされた夜子の顔を、初めて見たと透は思った。
 やっぱり噂されるだけあって綺麗だ。
 なぜか誇らしかった。

 その日その世界は夜を待たずに溶けて消えた。



 次の日の放課後。
 もう大丈夫だから帰ろうという透の提案に夜子は同意した。
 校門に来て夜子の足が止まる。
 透が手を差し出した。ためらいがちに手を伸ばした夜子の腕をひっぱって、抜ける。
 頼りなく学園を抜け出した一歩は、それでも一歩だった。
 わずかに嬉しそうに笑う夜子の長い前髪を持ち上げて透が言った。
「お前やっぱり髪を切れよ。そのほうが」
「そのほうが?」
 夜子が不思議そうに透を見た。至近距離で目が合う。
 夜子の瞳の黒さに驚きながら、透は赤面した。
「新橋君、顔が赤いわ」
 夕陽のせいだと透は言い張った。
 放課後の校舎は赤く、二人の影はどこまでも伸びていた。


【完】

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