ことば日和

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  私と佳代子と新しい町  

 私はどろとすすにまみれて汚い。だから綺麗な佳代子が好きだった。
 佳代子は世間一般から見れば特に美しいということはないらしい。
 私が佳代子を綺麗だと褒めたとき、佳代子は口を尖らせてそう言った。
 今時流行りだという茶髪が肩まできらきらと、太陽の光を反射して、私にはやっぱりそれは綺麗に見えた。
 そんな暗いところにいないで出てくればいいと佳代子は言った。
 あの時、私は出て行くべきだったのだ。
 せっかく佳代子が手を差し出してくれたのに、私は答えることが出来なかった。
 だから私は今、とても悲しい。



 私は昔からこの神社の床下に住んでいた。
 佳代子が子供のころから知っている。
 昔から明るくて聡明な子だった。初めて話しかけたとき、佳代子は誰もいないところから声がするのを不思議がった。
 ここだよ、と佳代子から見て床下、私から見て天井を叩いてやるとなんでそんなところにいるのと驚かれた。
 その時私は人と話すのは実に何年かぶりだったので言葉を忘れかけていた。言葉どころか声さえ出ない始末だった。
 あーとかうーとかつっかえながら話す私に佳代子は笑いながら今日学校で習ったという言葉を教えてくれた。
 私は佳代子と共に学んだようなものだった。

 この神社は小学校の裏手にある。
 小さな境内ではいつも子供が遊んでいた。私はそれを割れた床下の境目からひっそり眺めるのが好きだった。

 佳代子が私に助けを求めたのは佳代子が小学6年生のときだった。
 小雨の降る中、佳代子が真っ青な顔をしてやってきた。
 ふらふらとおぼつかない足取りだった。
 どうしたのと声をかけるとぼろぼろと涙を流した。綺麗な佳代子が流す涙はやっぱり綺麗だった。
 さっちゃんが動かないと佳代子は泣いた。
 裏の林で遊んでいて、さっちゃんが転んだと佳代子は言った。
 動かない、どうしよう、お母さんに怒られると言って泣いた。
 私はそのまま佳代子に帰ることを勧めた。
 お家に帰って、その綺麗な涙を見せながらお母さんに助けを求めるといい。
 きっとお母さんは怒らないから、と。
 佳代子は初め信じられないという顔をしていたが、絶対に大丈夫だと私が強く勧めるとしぶしぶそれを承諾して帰っていった。
 私は実はそれほど自信があったわけではなかったから、万一佳代子が怒られて私が嫌われるようなことがあったらどうすべきかを考えた。
 答えが出なくて怖かった。佳代子に嫌われては生きていけないと思った。

 けれどそれは杞憂だったようだ。
 佳代子が帰って間もなくして大人たちが林にやって来た。
 さっちゃんを見つけたらしく騒ぎ始めた。誰も佳代子を怒らなかった。それどころか佳代子のお母さんは佳代子を強く抱きしめた。
 母親の肩越しに佳代子が私に向けてピースをするのが見えた。

 あの時はありがとう、と学校帰りに寄った佳代子が私に言った。
 私はとても嬉しかった。そんな言葉をかけられたのはもういつだったか思い出せもしなかった。
 ひょっとしたら生まれて初めてだったのかもしれない。
 またなにかあれば来るといい、と私は佳代子に言った。
 佳代子は嬉しそうに頷いて、私はそれがまた嬉しかった。

 佳代子は中学生になって忙しくなったようだった。あまり姿を見せなくなった。
 中学校は小学校とは大分距離が離れていると言っていた。私はここから出たことがないので、必死に想像した。
 曲がりくねった坂道、そこを曲がると大きな家がある。家、というものが私には想像がつかなかった。
 ここからは小学校しか見えない。私の知っている世界はこの暗闇だけなのだ。じめじめとした空気と、ねずみ。
 それしか知らない。
 佳代子は一生懸命説明してくれた。それで私はおぼろげながら世界というものを知った。
 お礼に私は空がとびきり綺麗に見える時間を教えた。夕方、太陽が沈みかけるとき。茜色が夜のすそを引いてやって来る様はこの隙間から見えるだけでも相当に綺麗なのだ。
 佳代子はうれしそうに笑っていた。
「時々空をみるわ」
 と言ってくれた。

 もうすぐ高校生になるというとき佳代子がふらりと現れた。
 高校になったらここを離れると佳代子は言った。
 それは私にとって永遠の別離の言葉に等しかった。死にそうなほど心臓がぎゅっと痛かった。
 痛みを耐え、元気でと告げると佳代子はそこから出ればいいと私に言った。私は考えもしなかった。
 ここから出るなんて。
 ここから出ると恐ろしいことが待っていると私の中で激しく警鐘が鳴った。たまらなく怖かった。
 それはできないと佳代子に告げた。佳代子は少し小首をかしげて残念ねと言った。
 一度だけあなたの姿を見たかったと。
 私ですら見たことのない私の顔。恐ろしくて佳代子には見せられない。
 佳代子には申し訳ないなと思いながら私はちょっとだけ安心した。

 最近よく両親と喧嘩をするのだと佳代子は言った。
 佳代子には姉がいたという。もともと両親は姉ばかりを可愛がっていたそうだ。
 しかし佳代子が幼いころ彼女の姉は行方不明になった。それから両親の愛情は佳代子だけのものになった。
 けれど両親はよく彼女が姉のようにできないことを怒るという。それは佳代子に対して失礼極ま
りないと私が怒ると佳代子はありがとうと言った。
 見えない姉の幻影ばかりを追う両親にもう耐えられないと佳代子が言った翌日だった。
 佳代子はこれを持っていて欲しいとなにかを天井の隙間から差し入れた。
 うかつに触ると怪我をするから気をつけてとも言った。
 赤いどろどろしたものをつけたそれの名は包丁と言うのだと佳代子は説明した。
 私は誰かから何かをもらうなんて初めてのことだった。
 もったいないとただおろおろした。ただ床に置いておくとねずみが寄ってきて赤いものを舐めてしまう。
 私はどうしようかと真剣に考えてとっておきの場所にしまうことにした。
 佳代子からの贈り物がたまらなく嬉しかった。私は世界一の幸せ者だ。

 この神社にめったに大人が来ることはなかった。
 しかしその日は違った。黒と白で色分けされた車というやつが乗り付けられて、中から大人が二人ばたばたと慌しく出てきた。
 こちらに走ってくるその形相が怖くて私は隠れることにした。
 彼らは神社の中を調べているようだった。誰かいるのかと声をかけられても私は返事をしなかった。
 ただ膝を抱いて時が過ぎるのを待った。

 彼らは床下を覗き込んだり、あちこち踏み鳴らしたりしていたがやがてあきらめたようだった。
 黒と白の車に戻ると、中でまっている女の子に声をかけた。
 女の子は車の中から出てきて、私にはそれが佳代子だとわかった。
 佳代子は、なんだかこちらを睨んでいるように見えた。



 その日の夜、佳代子がやってきた。
 佳代子が夜に来るのはこの間プレゼントをくれたとき以来だ。私が歓迎すると佳代子は昼間はどこにいたのかと聞いた。
 ここにいた、と私は答えた。
「いなかったじゃない」と佳代子は怒った。やはりあれは佳代子だったのだ。
 私は怖くて隠れていたのだと説明した。どこに、と佳代子が詰問した。私は答えなかった。あの場所はとっておきで、もし佳代子に教えてしまったら佳代子とかくれんぼをするときに負けてしまう。
 だから教えることはできなかった。
「包丁はどこ?」
 それはとっておきの場所だと答えた。それ以上はいえない。なぜならそこは私の秘密の場所だからだ。
 私がそう胸を張って答えると佳代子は怒ったようだった。ふざけないでと言いながら神社の床を蹴った。
 そうされると私の顔の上にぱらぱらと砂が落ちてくるからやめてくれと私は頼んだ。
 もうそのままずっとそこにいればいい!と叫んで佳代子は出て行った。
 止める間もなかった。

 佳代子の来ない日々が続いた。
 きっと忙しいのだと私は自分に言い聞かせた。嫌われるなんて可能性を考えるのもいやだった。
 こんなことになってしまうのなら包丁を佳代子に返せばよかったと後悔した。佳代子は私に持っていてとは言ったが、あげるとは言わなかった。
 私が勘違いしていたのだ。
 ごめんなさい、佳代子。謝るから来てください。
 これが最後じゃないに決まってると私は思い込もうとした。

 神社の前に佳代子の中学と同じ制服の女の子が来るたびに、私は佳代子じゃないかとどきどきした。
「やだあ、ここでしょ?ヘンシツシャがいたの」
「佳代子のお父さんお母さん殺されちゃったんだってね。こわーい」
 女の子達は口々にそう言った。
 ヘンシツシャの意味はわからなかったが、佳代子の両親が死んでしまったことは理解できた。
 かわいそうな佳代子。それできっとこれないのだ。
 私は佳代子に会いたかった。きっとまた綺麗な涙をぽろぽろとこぼして泣いている。慰めなければ。
 出て行こうとして、天井に手をかけ、ためらってはひっこめた。それだけで何日か過ぎていった。
 私はどうしても、出て行くことが出来なかった。


 そして何日か経った日の夜、佳代子が現れた。荷物を持って、これから町に旅立つのだという。
 私はあわてて包丁を持ってきた。これを返さなければ。
 最後に、と佳代子はポットというものを取り出した。
「あなたにはいろいろお世話になったからお礼がしたいと思って」
 こぽぽと湯気のたつあたたかいなにかをカップに注いだ。
「紅茶というの。甘くしてあるからきっとあなたも飲めるわ」
 私はそんなもの見たこともなかった。小さなカップが天井の隙間からするりと差し込まれた。
 私はそれを受け取った。あたたかいという感触におどろいてカップを落しそうになった。湯気がほんわりと気持ちよかった。
 こんなにいいものをくれるなんて、佳代子はなんて優しいんだろう。
 ああ、早く包丁を返さなくては。

 私はカップを横に置いて、包丁を手に取った。先ほど佳代子がカップを入れた隙間から包丁を差し出す。
 ぐにゅりと変な感触がして、ぽたぽたとなにかが落ちてきた。
 なにかにひっかかったのだろうか。ぐいと押してもつっかえてこれ以上進まなかった。
 名を呼んでも佳代子は返事をしない。なにかあったのだと私は思った。
 佳代子のためだと言い聞かせて床板を押し上げた。むっとしたこことは違う、流れる空気に一瞬息が詰まった。
 肺がすみずみまで染み渡るような綺麗な空気を喜んだ。
 佳代子は、床板を覗き込むようにして倒れていた。
 あおむけにして、嗚呼、私は私がしたことを初めて知った。
 佳代子はうかつに触ると怪我をするから気をつけてと言っていたのに、私はすっかり忘れていたのだ。
 佳代子の綺麗な目に包丁がささっていた。
 佳代子はもう息をしていなかった。
 私は佳代子の死がたまらなく悲しかった。おいおいと声をあげて泣きたかった。
 だが大声を上げて泣けるほど、私の声帯は発達していなかった。
 ぽろぽろと涙がこぼれた。悲しくなって床下に戻った。佳代子のくれた紅茶はすっかり冷めていて、ねずみが嬉しそうにそれを飲んだ。
 瞬間ぴくぴくと痙攣してねずみが死んだ。私は驚いて紅茶の入ったカップを倒してしまった。
 佳代子の思いやりが土に吸い込まれていった。
 ねずみと佳代子の死体を目の前に私は考えていた。今までの人生で一番頭を使ったかもしれない。


 私は意を決した。


 佳代子を私のとっておきの場所に案内した。ここならかくれんぼで見つかることもない。
 佳代子の綺麗な瞳に刺さった包丁を抜いて私は伸びきった自分の髪を切った。佳代子のように茶色にはならないけど、同じくらいの長さになった。
 佳代子の足から履くものを借りた。佳代子の身につけているものはことごとく私にぴったりのサイズだった。
 床板をはめなおして、外に出た。
 立ち上がって歩くのは実に久しぶりで、あしがよろよろとした。
 神社の柱に捕まって、しばらく歩く練習をした。
 そうすると、昔の記憶がうっすらと蘇るようだった。小さなころ、私もよくこの神社で遊んだ。
 妹と一緒にかくれんぼをした。
 ここなら絶対見つからないと妹が得意そうに言った場所はその時工事中で深い穴が空いていた。
 危ないという私の背を大丈夫だからと妹が押した。
 転落した私はひどく体を打ちつけて、咳き込んだ。底は暗くて上を見ると日の光を背に妹が立っていた。
 誰かを呼んできて欲しいと告げると妹は大きな石を投げてきた。
 あたったのだと思う。目の前が真っ暗になって、気づいても真っ暗だった。
 それからずっと、今の今まで私は暗闇で暮らしていた。

 私は涙を流した。私は佳代子が好きだった。
 佳代子のかばんを開ける。新しい町の住所が書いてあった。
 誰も知らない町で新しい生活をはじめるはずだった佳代子の命を私は奪ってしまったのだ。
 佳代子が見ようとしたものが見たいと思った。それを佳代子に教えてあげよう。
 夜がゆっくりと明けていった。
 かばんを持って立ち上がる。私にはひどくつらい重労働に思えた。
 町までどのくらいの距離があるのだろう。私は歩ききれるのだろうか。

 標識が見えた。大丈夫、読める。
 文字は佳代子が教えてくれた。
 神社の方を振り返った。傾いた屋根だけが見える。
 留守を頼むと佳代子に告げた。



【完】
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