ことば日和

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  それではまるで足りない。  

 足りないものは誰にだってあるのだ。
 だから悩む必要なんかないのだと言い聞かせた。
 けれど、これは。
 人としてわが身を確立させるのに不可欠な要素なのではないか――――。

 逡巡した思考を止める。
 顔をあげた僕の前にはぐちゃぐちゃになった子供がいた。肉の塊が血溜りに落ちている。
 誰も来ない裏山の廃墟の中で、僕の呼吸だけがぜいぜいと響いた。
 湿った匂いがする。雨が来るのか。

 僕は自分を人だと思って生きてきた。
 人ではないのかも知れないと思い始めたのはごく最近のことだ。
 足りない。
 まるで足りない。
 良心と呼ばれるもの、否、心そのものが。
 代わりに突き上げてくるような衝動に身をまかせて斧を手に取った。
 べつにこの子に恨みがあったわけじゃない。
 ただ僕がそうしたかっただけだ。
 そうしたかっただけ…。
 そう思っただけで僕の全身がぶるぶると震えた。歯がかみ合わなくてがちがちと鳴る。
 そうしたかっただけなんて!
 なんて薄情な意見だろう。人でなしとはこのことだ。
 頭を抱えた。涙がぼろぼろ出てくる。
 目の前の死体からようやく血の匂いを嗅ぎ取った。
 涙は免罪符。
 わかってる、こうして僕は泣きながら、それで許されるのだと思っている。
 罪に怯えた人間のふりをして、でも良心なんて痛んじゃいない。
 冷静に僕を観察している僕がいる。無い心が痛むはずもないだろうと笑う僕がいる。
 お前は誰だ。


 今日の朝はいつもどおりに始まった。
 母さんの作ったトーストに目玉焼きを乗せてかじりながら(妹はうえー、信じられないと言っていたが美味しいのだ)、新聞をななめ読みした。
 興味のあるスポーツ欄と三面記事、テレビ欄をざっと見て投げる。
 薄くてあまり味のしないインスタントコーヒーをすすりのんだら、出かける時間だった。
 高校までここから自転車で30分。途中の坂道がきついけど、そのぶん頭が冴える。
 道沿いに商店街、左手に海。
 のどかな景色を眺めながら自転車を漕ぐ。加速するこの瞬間が好きだ。
 高校について級友と挨拶を交わし、授業を受け…、それで一日が終わるはずだった。
 
 帰り、やはり自転車に乗った僕の前に保育園児が飛び出してきた。
 間一髪で避けたが、その子は驚いて泣き出してしまった。ああごめん、大丈夫かいと自転車を降りてその子に駆け寄った。
 転んだその子の砂を払ってやり、鼻水を拭いてやる。
 膝頭ににじんだ血を見た。すりむいてうっすらとにじんだ血を見て僕は微笑んだように思う。
 気づけば僕はその子の手を引いて裏山を登っていた。とっておきの秘密基地を見せてあげると言ったのだ。
 裏山の、廃墟。コンクリートが味気なくむき出しになっている施設のなれの果て。
 確かにそこに近づくものは少ない。人気がなくて、僕の安心できる場所だった。
 その子は鼻歌を歌っていた。楽しそうにぶんぶんと枝を振り回して笑っていた。
 僕も笑っていた。
 なぜ笑えたのかわからない。
 もうその頃には自分がなぜそうしているのかよくわかっていたのに。
 
 それは飢えにも似た衝動だった。慢性的にそこにあって、時々息も出来なくなる。
 足りないのだ。
 圧倒的に足りない。
 なにが足りないのかはわからない。焦燥感だけがこみ上げる。
 僕は斧を手に取った。
 いつだったか、工作の材料で木を集めるときに持ってきて置き去りにした小さな斧。
 申し訳程度のそれでその子の首を切った。斧は中ほどで骨に阻まれて止まった。
 きょとん、としたその子と目があった。
 瞳にみるみるうちに涙が溜まる。
 そのまま僕はその子に何度も斧を振り下ろした。
 返り血が僕の服にべっとりついた。
 
 降りだした雨の中その子を丁寧に埋めた。
 淡々と、作業のようだった。土と湿った草木の匂いがやけに生々しかった。
 手は血と泥にまみれた。たくさんの返り血がついた僕の服はぐっしょりと濡れて重かった。
 特に服を脱がず、隠しもせず自転車に乗って家路につく。
 そのまま捕まってしまえば良かったのだ。
 血まみれの高校生が自転車に乗ってますよと誰でもいいから110番して欲しかった。
 悲しいかな、僕の住んでいるところは田舎で、街灯はまばら。夜は真っ暗だった。
 雨の中カサをさして歩く人たちは僕に関心を払わなかった。
 家について、明るい玄関に入った。
「うわー、ずぶ濡れになっちゃったよ」
 どかどかと服を脱ぎながら脱衣所に行く僕に母が「風邪を引かないようにね」と声をかけた。
 そして僕は脱衣所にまんまとたどり着いて血まみれの服を脱ぎ捨てた。
 洗濯機に入れ、洗剤を投げ込んでフタをする。
 ごうんごうんと音を立てて、あの子の血が洗剤に溶けて行った。
 
 夕飯はハンバーグだった。
「あー、腹減った」と声を上げてばくばくと飯を食べた。ごはんに、とうふの味噌汁、ハンバーグに付け合せのポテトサラダ。炒め物もあった。全部食べる自分が人事のようだった。
 家族と何気ない会話をして笑う。
 母さん、僕今日人を殺したよ。子供だった。殺して埋めて来たんだ。
 それが会話にまぎれても笑い飛ばされそうな、家族の団欒だった。


 傍目にも異常であれば、誰もが僕を檻に閉じ込めただろう。
 僕は会話が出来た。それどころか至極まっとうな高校生活を送っていた。クラスメイト達と笑いあい、ときに喧嘩し、いやいやながらに勉強する。僕は、それだけの適応能力を持っていて、悲しいかな自己申告しない卑怯さも持ち合わせていた。
 誰かが、僕を名指しで非難してくれれば。
 世界が崩れるように僕は涙を流しながら罪を認め許しを請うだろう。
 罪なのがわかっている。
 おかしいのもわかっている。
 けれどこの衝動が止まらない。まるで足りない。
 あの子を斧で打っているその瞬間だけ、何かが少し満ちた気がした。
 保育園児の失踪は一時ニュースになった。誘拐かと騒がれて、両親がTVに出ていた。
涙ながらに子供を返して欲しいと訴える姿を見てもなんの感情もわかなかった。
ニュースは日が過ぎるたびに扱いが小さくなり、今ではそんなことがあったのを覚えているのは当事者だけだ。
 名前も知らないあの子は裏山で眠っている。
 それでも。
 僕はまだ足りていなかった。



 二人目は、酔っ払ったサラリーマンだった。
 たまたま夜中にコンビニに出かけて、駅前を通った時電柱にもたれかかっている彼を見つけた。
「大丈夫ですか?」
 声をかけると彼はろれつの回らない返事をした。ぷんと匂うアルコール臭に辟易した。
「送りますよ」
 声をかけ、肩に手を回す。彼はああすみませんと言ったようだった。
「お互い様ですよ」
 僕はあなたを殺そうとしているのだから。
 彼は酔っていた。
 裏山を登り始めても、そこが山だとは思わなかったようだ。
 かさかさとシダの葉がズボンに触れたのがいやに生々しかった。じっとりと額に汗がにじんだ。
 廃墟の床に投げ出すように彼を寝かせて、上着とズボンを脱いだ。今日は雨が降りそうもない。返り血は御免だった。
 斧を握った。柄が冷たい。
 彼の寝顔は安らかで、まるで子供のようだった。


「いやに遅かったじゃない。心配したのよ」
 裏山から帰ると母さんが玄関で仁王立ちして待っていた。
 玄関からの逆光がなかなか怖い演出になっている。
「酔っ払った人がいたから途中まで送ってきたんだよ」
 僕がうんざりしたように言うととたんに鼻をつまんだ。
「お酒くさっ!あんた匂い移ってるわよ。早くお風呂入りなさい」
 はいはいと返事をして家に上がる。
 脱衣所に入った。服の内側、体には返り血がついている。
 服を脱いで洗濯機に入れる。洗剤を入れて、スイッチを入れた。
 そのまま隣の浴室でシャワーを浴びる。
 彼の血がお湯に溶けて流れて行った。
 どうしよう、僕は学習してしまった。
 返り血がまずいと、わかっていたのだ。だから服を脱いだ。おかげで母さんにもばれなかった。
 ばれなかった?
 そう、ばれなかった。どうして。
 僕は唇を噛み締めた。
 こうして僕はひとつずつ賢くなっていく。そして淡々と人を殺していくのだろう。
 理由はない。
 胸に開いたこの飢餓感が埋まる日はない―――――。
 だから僕は待っている。
 断罪の日を。
 誰かが僕に鉄槌を下す日を。
 飢えるほどに待ち望んでいる。
 
 シャワーを浴びて、居間に戻ると親父が一杯やっていた。
「おう、酔っ払い送ったって?いいことしたなあ。俺も頼むわ」
 がははと笑う親父につられて笑った。
「御免だよ。自分で歩きなって」
 親父、気をつけたほうがいい。
 そいつがもしも僕だったら―――、あんた殺されちまうよ。


 僕はときどき考える。
 もしかしたら妹も、僕と同じなのかもしれない。
 僕と同じように人を殺め、隠し、なんでもないように笑っている。
 妹はテレビを見て声をあげて笑っていた。
 目じりの涙を拭いながら「超おっかしー」と腹を抱えて笑っている。
 子供だなと声をかけるとむっとふくれっ面をよこした。
 これが、演技なら。
 僕は妹の目をじっと見る。
「なによー」
 演技なら、ボロは出さない。
「お前、太った?」
 やだあ、まっさかあと妹が自分の腹に目をやる。柔らかそうな肉。
 冗談だと笑いながらかすめた感情に嫌悪する。
 なんて思った?
 肉、だって?

 
 
 僕の両親は取り立ててどうということのない、どこにでもいる普通の人だ。
とワイドショーを見て思う。もっぱら現在話題の連続殺人の話題だ。親や教育方法にまで
話がおよんでいる。
 僕に限って言えば、別に両親がどうこうというわけじゃない。コミックや映画の見すぎ
でもない。
 ただ、そうしたかっただけ。
 当たり前のようにそう思う自分の思考回路に吐き気がした。食べていたみかんがのどにつかえそうになる。
 僕はあの日一線を越えるまで自分を人だと思っていた。
 けれど家族と同じコタツに入って、歓談しながらテレビを見ても、考えていることはこんなにも違う。
 親父、俺人を殺したんだ。冬が来るまでに3人、裏山に埋めた。
 理由なんかないよ。 
 ないんだ。

 僕には、足りないものがあるんだと思う。
 きっとそれを探しているのだと思う。
 夜中に、たまに目が覚める。かちかちと歯を鳴らしてふとんに包まる。自分が怖い。
 なのに朝になれば至極当然のように学校へ行き、なんでもないようにクラスメイトと話をする。
 僕は、なんだ?



 それは6人目を殺した晩だった。
 いつものように洗濯機に血のついたシャツを投げ入れて、洗濯機を回した。
 風呂に入って、自室にいると妹が駆け込んできた。
「ちょっとお兄ちゃん、洗濯機になに入れたのよ!あたしのシャツ真っ赤!」
 見ると生乾きの妹のシャツを手にしている。白いはずのシャツがピンク色だ。
「スイッチ入れたぜ?色が移るわけないだろ。僕じゃないよ」
「コードが抜けてたってお母さん言ってたもん。もう〜勘弁してよ。血みたい!」
 妹の声にどきりとする。
「悪かったよ。また新しいの買ってもらえよ」
「これ限定品だもん。 まあピンクになっても着れるからいっか」
 妹はしげしげと血に染まったシャツを見た。
「捨てろ!!」
 がらにもなく怒鳴った僕に妹は驚いたようだ。
「お兄ちゃんが悪いんじゃん!馬鹿!!」
 半泣きになって部屋を飛び出す。今頃母さんに泣きついているだろう。
 今回はまずった。
 次は気をつけないとな。
 次は…。



 あいつなにか気づいたようだ。
 どうしよう。どうすればいい。
 もうごまかしきれない。
 廃墟に呼び出された。
 自首でも勧める気か。
 僕は。
 なぜだか斧を手に取る。
 僕は。
 なにをしようとしている。
 だがまだ止まれない。まるで足りていない。
 歯がかちかちとなる。これからしようとしていることを思うと涙が出てくる。
 いっそこの斧で自分に始末をつけてしまえば。
 その方が…きっと…。
 けれど僕は知っている。
 卑怯な僕はそうしない。
 この手で妹を殺めるだろう。
 震えて涙を流しながらいつもそうしたようにあいつを裏山に埋めるんだ。
 想い出のひとつひとつを噛み締めながら土をかけ、埋めるんだろう。
 僕は。
 それを考えて泣きながらも笑う僕は、もう。
 きっと人間じゃない――――――――――――――――――――――――。




 そこでお兄ちゃんの手記は終わっていた。
 夜の裏山はすごく静かで、虫の声がする。
 お兄ちゃんは、人間だ。
 そう思う。
 お兄ちゃんの仕業に気づいた私を殺そうとして、刹那ためらってしまうほど人間だ。
「うらやましいよ」
 ぼそりと呟いた私の声が廃墟に響いた。床に寝たままのお兄ちゃんは返事をしない。
 お兄ちゃんは私に斧を振り下ろそうとした。殺そうとしたのだ。
 なのに私が「お兄ちゃん!」と叫んだだけでお兄ちゃんの動きは止まった。
 間髪入れずにすねを蹴り、うずくまったところを斧を奪って打ち込んだ。
 お兄ちゃんは、人間だった。
 自覚のない罪に怯えて、怖がっていた。
 だから、最後の瞬間とても安心したように微笑んだ。
 ずるい、と思う。
 一番楽なところにさっさと行ってしまった。
 私は。
 お兄ちゃんの亡骸を見ても涙すら出ない私は。
 この先も家族と仲むつまじく、時には彼氏とじゃれたりして生きていくんだろう。
 笑って、泣いて、時々、底辺に横たわるような暗い飢えに我慢できなくなって人を殺して埋めて。埋めて。埋めて。埋めて。
 そうして死んでいくのだろう。
 
 それでも、きっと。
 生涯埋め続けたのだとしても。
 この飢えにはまるで足りないのだ――――――――。

 さあ帰らなきゃ。お母さんがシチューを作って待っている。
 私はお兄ちゃんが埋まっている裏山を駆け下りた。
 木々がざわざわと揺れる。

「さよなら、お兄ちゃん。また今度」

 
 
 

【完】
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