慟哭、高く。
この世界に私と同じ形の獣はおらず、私は世界にただ一人きりだった。
俊敏なこの四足が自慢で、走る最中の風が心地よかった。私が駆けるたびに大地が裂け、木々が割れた。この世界は私にとって脆すぎた。少し触れるだけで壊れてしまう。
それも自然の摂理なのだから仕方なかろうと私は思った。
他の獣と同じように肉を食み、川の水を飲んで、森を駆けては寝た。
まるっきり他の獣と同じことをしているつもりだった。
ある日、人間達が来た。
身振り手振りで彼らが訴えるには、どうかこれ以上村に災厄をもたらさないでほしいということだった。
確かに私は彼らの村を駆けた。爪に何人か引っ掛けたかも知れぬ。それでもどうして彼らが私にだけそういうのかがわからなかった。
ただ彼らが人身御供として置いていった女は大層美味かった。
黒髪だったということしか覚えていないが、彼女に免じてしばらく村には寄らぬよう心がけた。
山々はとても広い。遊び場には事欠かなかった。
それから、人間達は月に一度、女を置いていった。
中には人間達がいなくなってから、逃げ出そうとする女も居た。
始めおいかけっこでもしたいのかと思ってしばらく待った。私の足ではすぐに女に追いついてしまう。
それから女の匂いをたどって追いかけた。三歩か四歩、駆けただけだったように思う。
轟と空気が鳴ってびりびりと木立が揺れる。
女の背中が見えた。軽く手を伸ばして触れただけで女は倒れてもう動かなかった。
私はなんだかひどく不機嫌になって女を食べたのを覚えている。
腹が満たされてもいつまでもぽっかりと胸に空く穴があった。
私は世界でただ一匹の獣。この満腹感をわかちあう仲間がいないのだ。
寂しいと思ったことはなかった。
それでも私はさやに会って、それまでの私は寂しかったのだと知った。
さやと出会ったのは、人間達が女を差し出してもう三年は経とうというころだった。
もう、村に女はいないのだと人間達は肩を落として言った。
上等な桐の箱に入れられた最後の女。それがさやだった。
いつもは女を見せて帰る人間達が箱を開けないまま去った。
退治師でも入っているのかと私は警戒した。あいにくこちらが風上だ。匂いがわからない。
ごとり。
箱の上蓋がぎこちなく動いて、小さなもみじのようなさやの手が見えた。
小さく開いた隙間から一生懸命に蓋をどかそうともがいている手を私はあっけにとられて見ていた。
それは大層瑞々しかったが、食事にするには小さすぎる気がした。なんて小さい。
ばたばたともがいていた腕がじれたように拳を作って、どん、と蓋を叩くと再び箱に戻ってしまった。
そっと箱に近づいて、蓋に手をかける。前足で軽くこするだけで蓋はなんなく落ちた。
「ああ、あんた力持ちだぁ」
箱の中でぐったりと天を仰いでいたさやがからからと笑った。
私は途方に暮れた。
一体人間はこの小さなさやをどうしろと言うのか。
食うには足りぬ。捨て置くには忍びない。
さやは私の綿毛にくるまってすやすやと寝息を立てていた。
村に返そう、と私は思った。
「おっかあ…」
さやがくすんと泣いた。
私の腹に顔をうずめて泣いた。
そのぬくもりは離れがたい魅力に満ちていた。
私はさやを返し損ねた。
誰かと過ごすということが初めての私にとって、さやとの日々は驚きに満ちていた。
私となにもかも違う相手。歩き方も、食べ物も、なにもかも。
それでも夜は共に寝ることで、さやとの距離は縮まったかのように思えた。
さやは驚くくらい少食だった。
木の実を少し口にしただけでもういらないと言う。
私が心配して獣を取ってきてももう食べられないと言う。
「あんたは体がおっきいからたくさん食べるんだね」
獣を食べる私にさやは言った。
さやは私が毛づくろいしてやろうとすると嫌がった。
唾液がねばねばするのだという。仕方がないではないか、私は獣だ。
憤然としながらもさやを小川に連れて行く。大層嬉しそうにはしゃぐさやを見て私は自分をなだめたものだった。
さやに擦り寄るとき、私は細心の注意をした。もろく崩れやすい手も背も小さいなんて貧相な人間の子供。壊してしまいそうだ。
爪もなく牙もない。いざというとき一体さやはどうするのかと私は心配になった。
ある日私は、さやを背に乗せて山をかけた。
前足を蹴れば風が唸る。その速さにさやは無邪気に喜んだ。
景色がどんどん遠ざかっていく中でさやが悲鳴を上げた。
慌てて私は立ち止まる。
土が抉れて、木々が折れた。
私から飛び降りたさよは小さな足で来た道を戻って行った。
さやの足で何十歩も、私の足で二歩程度の場所に今はもう動かないうさぎが居た。
後ろ足に少しかかったらしい。
さやは――なぜかぼろぼろと泣いて――うさぎを抱き上げた。
私はそれを食べるのかと思った。
さやは泥とうさぎの血に染まった手で涙を拭いながらうさぎを埋めた。
私は不思議そうにそれを見守った。
うさぎを埋めて、墓標のように枝を立てるとさやは言った。
「あんたが大きいのはあんたのせいじゃないかもしれねぇ。でも、今どうしておらが泣いているのかわかんねぇのなら、――――――あんたはやっぱり獣だ」
さやは私を悲しそうに見つめると背を向けてとぼとぼと歩いていった。
さやが泣いているのはわかった。理由は…わからない。それでもさよならを言われたのだと思った。
無性に心が痛かった。
サミシイサミシイと泣いているようだ。
私はさやを追ったりしなかった。
ただ、うなだれて考えた。
さやはどうして泣いたのか、必死になって考えた。
夜になって、巣に戻ってもさやはいなかった。
雨を嫌うさやのために洞窟にある私の巣。
私は、少し期待をしていた自分がいたのを知った。
私は忘れていたのだ。私とさやは違うことを。私の一歩はさやの何歩かを。さやには爪も牙もないことを。
狼の遠吠えを聞いたとき私はそれを思い出した。
爪も牙も持たぬさや。
もしも、さやが。
狼共に喰われたのなら私はこの山を惜しみなく壊すだろう。
私は駆けた。轟轟と風が唸って景色が流れる。
私は私をこの体に生んだ神に初めて感謝した。
狼に囲まれていたのはやはりさやだった。
獲物を弱らせて止めを刺す、その狩り方が幸いしたのか、さやはまだ生きていた。
衣服が破れ、ところどころ血を流している。意識を保つのが精一杯のようだ。
暗闇の中に私がいることに狼達は気づかなかったようだ。
いっせいにさやに飛びかかろうとするのを、さやの前に躍り出て弾き飛ばす。
何匹か私の体に食いついた。
身を震わせて弾きながら、咆哮する。びりびりと空気が震え、狼達が逃げて行った。
さやを振り返ると、さやは私を見つめていた。
「あんた…」
それ以上は言えなかったようだ。さやは崩れ落ちた。
狼に何箇所か噛まれたさやは、ひどく衰弱していた。
小さな体が信じられないくらい高い熱を出していた。
私はどうにかさやを咥えると巣に戻った。
薬草を取ってきては噛み潰してさやに飲ませる。小川に尾を冷たさにしびれるくらいまで浸してさやの小さな額に乗せた。
日々はあわただしく、さやの様態に一喜一憂しては気苦労ばかりだったれど、私はとても充実していた。
何日目かの朝、さやは目覚めた。
私を見て、なにか思案をめぐらせて、また眠った。
その日の夜、さやは起きた。
「あんたが、看病を…」
さやは驚いたようだった。ごろごろと喉をならす私を小さな両手をいっぱいにして抱きしめると「ありがとう」と言った。
私はたまらなく幸せだった。
さやとの生活がもう一月になろうという頃だった。
人が、巣のそばに来た。いつかの女達を捧げてきた村人だ。
私のそばにさやがいるのを見ると大層驚いて、叫んだ。
「さや!おめ、生きてたんか!」
「源吉さ!久しぶりだな」
さやはぱっと嬉しそうな声を出した。人と話が出来るのが嬉しそうだった。
さやが私に目で合図をして源吉に近づいた。私は大人しくそこで待つことにした。
何事かを話していた。いい天気で、私はうつらうつらしていた。突然、
「そんなのだめだ!」
とさやの声がした。私は反射的に立ち上がった。
源吉は立ち上がった私に怯えながら、さやに尚も話しかけた。
「なに言ってるだ。お前、あれは…」
源吉がさやに手を触れようとしたので軽く唸ってやる。源吉は慌てて手をひっこめた。
「なあ、さや…」
「だめだ。おらは行かない!」
さやは私に走りよってきた。しがみつくように背に乗って、「行って!」と叫ぶ。
私はさやの希望通り自慢の足で駆けて、みるみる源吉から遠ざかった。
さやはぎゅっと私にしがみついていた。
その夜、さやはそわそわと落ち着かなかった。
源吉になにを言われたのか気になったが私は問う術を持たなかった。さやは私と外とを交互に見比べた。
やがて小さなたいまつの灯りが見えた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ…
数え切れないくらいのたいまつが山の暗闇にくっきりと見え、私の巣を目指していた。
さやが「ああ」と溜息にも似た声を出した。
私は洞穴から出てたくさんのたいまつを迎えた。
洞穴を半円を描くように囲んだ人間達は思い思いの牙を持ってきたようだった。
畑を耕すのにつかっているであろうそれは私から見れば大層貧弱な牙だった。
唸り始めた私の前にさやが躍り出た。
「待って!」
たいまつを持った人間の海が割れて、一人の老人が出てきた。
「じいさま」
「さやか。本当に生きとったとは…こっちへおいで」
「だめだ。おらが離れたらこいつを狩るんじゃろ」
「敵わぬかもしれん。けれどせねばならん」
じいさまの答えを聞いたさやは私をかばうように両手を広げた。
「さや!正気か!」
たいまつがどよめいた。
「村には…」
じいさまが口を開いた。
「村には、もう女がおらん。これ以上、獣を野放しにはできぬ…。わかるじゃろう、さや。その獣が駆けるたびに村人が死ぬ。作物はなぎ倒され、家がほころぶ。災厄以外の何者でもない」
さやは無言で首を振った。
「さや…忘れたわけではあるまい。お前の母もそれに食われたのだぞ」
私は目を見開いてさやを見た。
いつかさやが私の腹に顔を埋めて「おっかあ」と泣いたのを思い出す。
さやは身じろぎせずじいさまを見つめていた。
「これは…獣じゃ。ただの獣じゃ。腹が減れば食う。仕方ないんじゃ」
「さや!!」
村人の呼び声は怒号に近かった。殺気が山を包んで鳥達が夜にも関わらず逃げて行った。
じり、と私が前足を動かすだけでたいまつの半円は広がった。
「駄目!」
さやが叫んだ。私が止まる。
「じいさま」
さやがきっと顔を上げた。
「これはおらの言うことを聞く。だから…」
「駄目じゃ。お前を山には置いて行けぬ」
さやが唇を噛んだとき、ひゅうっと空気が割ける音がした。
つぷりと鈍い感触が体にする。
私に刺さった人間の弓矢。私は怒りで咆哮した。
山中に私の声が木霊する。
それが人間達に火を付けたようだった。
「どけ、さや!」
手に手に武器を持ちながら私に突進してくる。
私は―――、人間達も―――さやは避けると思っていた。
だから人間は容赦なく鍬をふりかざしたし、私も相手を噛み殺す用意をしていた。
なのにさやは避けなかった。
さやの小さな体にたくさんの鉄が食い込んだ。
瞬間、体を満たした感情をなんと呼ぶのだろう。
私は腹の底から吼えた。
人の列をなぎ倒す。方々に飛んだ村人にはまだ息があった。
その喉笛切り裂いてやる――――――――!!!!!!
怒りにかられた私を元に戻したのはさやの小さな手の感触だった。
後ろ足を、まるで私を止めるかのように小さくつかむ。
気づかずに蹴り上げていたら、さやは死んだかもしれない。
それでも私は気づいたのだ。
さやの小さな小さなてのひら。その感触に。
紅蓮に染まった心に水が満ちるように、怒りが引いていった。
鼻を鳴らしてさやに擦り寄る。
「だめ、だ…」
さやの小さな息は今度こそ消え入りそうだった。
私はさやを咥えると人間達に一瞥をくれてから駆けた。そっと、さやの負担にならぬように。
どのぐらい駆けたろう。
人間達のたいまつももう見えなくなってしばらくしてから、さやが私の鼻を叩いた。
ここでいい、という合図だった。
切り立った崖の上、満天に星空が輝く綺麗な場所だった。
さやを地面に横たえる。
さやは息も絶え絶えで、苦しそうだった。
私を見る、その焦点を合わせることすらつらそうだった。
私の鼻先に手を伸ばして告げる。
「…お前は、悪くねぇ…」
さやは言った。笑おうとしているようだった。
「ただ、他よりおっきいだけだ。悪くねえ…」
最後ににこりと笑うとさやは息を引き取った。
私はさやの頬を舐めた。べたつくのが嫌だと起き上がって怒ればいいと思った。
さやはもう動かなかった。
高く、尾を引くような遠吠えが夜空に響き渡った。
私からこんな声が出るなんて思わなかった。
その夜の星空はひたすらに綺麗で、私はどうして雨が降らないのかが不思議だった。
こんなに悲しいのに私は涙を流すことすら許されない。
それは私がただの獣である証だった。
これは獣だとさやは言った。
ただ、大きいだけだとさやは言った。
ただ大きいだけの愚かな獣である私は、自分のなんたるかをわかっていなかった。
風を切る意味を。
山を駆ける意味を。
女を食う意味を。
結果、私は災厄となり、さやのおっかあをこの口で食った。
さやはそんな私に言ったのだ。
「お前は悪くない」と。
あるいは私の獣性に絶望しての言葉かも知れなかった。
けれどもそうでないことは、
私とさやの日々が証明している――――――――――――――――――――――
私はあの日さやが涙を流した理由を知った。
だから、私は無闇に野を駆けまいと誓った。
あの日、足に触れたさやの小さなてのひらに気づいたように小さな獣を踏まぬよう心がけよう。
二度とさやと同じ娘を作らぬよう、人里には近づくまい。
そうすれば、いつかさやと同じ場所に帰る時にさやが迎えにきてくれる気がした。
穏やかな日々が続いた。
今では小鳥も私に寄ってくる。私の上でくつろいで、そしてまた飛び立っていくのだ。
私は眠ることが多くなった。
ぽかぽかと日差しが暖かい。
まるでさやの手のようだ。
きっともうすぐさやに会えるのだ。
私は幸せな気持ちでまどろんだ。
【完】