ことば日和

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  扉の向こう  

 扉の前に立つのはこれで何度目だろう。
 取っ手に手をかける。
 熱くも、冷たくもない取っ手。それでも人の体温よりは低いようで、冷やりとしたさわり心地を私に残す。
 この扉が固く閉ざされる前に、私の母は言った。

「この扉を開けてはいけない−−−−−−−−−−−−−世界はこれから終わるのだから」

 その言葉を最後に扉は閉ざされ、私に孤独が訪れた。
 


 どのくらいの月日が過ぎたろう。
 食料が尽きる−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 それが私の意識の覚醒の始まりだった。
 
 終わりが、見えたのだ。
 無尽蔵にあるかと思えたその食料に。水も。
 あと一月持たないと、私の脳が告げた。
 それからだ。
 それまでさして興味のなかった扉を睨む日々が続いた。
 あの向こうにはなにがあるのか。そのことにひたすら興味を抱いた。
 
 母が、あの扉を閉じたとき、世界は終わりのない戦争をしていた。
 実は地球を何十回も滅ぼすことの出来る核とやらは世界に蔓延していて、その発射スイッチを押すのも大した作業ではないらしい。
 あちらから飛んでくる核が到達まで何分何秒。迎撃しますか?報復しますか?という文字にするのも馬鹿らしいような選択枝を支配者は選んだ。曰く、報復を。
 かくして豊かな大地にはおぞましい核の棘がつきささり、世界は死んだ−−−−。
 それが私の知っている全てだった。
 
 扉が閉ざされてからずっと、私は外の世界を考えないようにしていた。
 希望が絶望にとって変わるのはたやすい。だからラジオもつけなかった。
 たまにつけて砂嵐の音を聞いては安心した。自分の他に誰も生きてはいないのだと。
 夢想もした。
 私をここに閉じ込めた母は、実は母ではなくて、私は誘拐されているのだ。FBIが必死に行方を探してる−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−。
 私は、多分笑った。く、くくっと声帯が振動している。
 そうして、目を伏せ、それから扉を見た。
 あの日母が閉じた世界を閉ざす扉。
 もしかしたらあの向こうには自分が知らないだけで、生き延びた人間が作った世界があるかも知れない。
 否、私は知っている。人類の断末魔の叫びを。
 ラジオから途切れ途切れに聞こえたそれを私は生涯忘れまい。
 けれど、もしも−−−−−−−−−−−

 一瞬希望の光が差しては自分で消す。なんと不毛な作業だろう。
 私は確信が持てるまであの扉を開けない気か。
 それでも食料はあと一月持たずに切れるのだ。
 旅に出るのならば相応の支度が要るのも私は知っていた。人類のコミュニティが近くになければ私は否応なく彷徨うはめになる。
 歩けるのか…。瞬間自分を掠めた疑問に寒気を感じて私は立ち上がった。
 ここしばらく運動らしい運動をしていなかった。なんたること。
 室内をぐるぐる歩いて、歩いて−−−−それだけで息が途切れた。
 私は扉を見た。
 がんとしてそこにある扉は、少し頼もしかった。

 食料を念入りに調べた。さまざまな缶詰に、乾パン。水。
 持ち運びの出来るものを後に残すように食べすすめることにする。
 水はどうしたって重い。しかも開封後は数日で痛む。最低限持って行くようにしなくては。
 
 身支度はあっさりするほど簡単に終わった。
 もともとここには必要最低限のものしかないのだ。
 持って行くのは乾パン、水。タオルと怪我をしたときのために簡単な医療用具。これらがあれば十分だろう。
 
 食料の残りが2週間を切ったら旅に出ようと決めた。
 2週間以内に食料も他の人類もなにも見つけられなければ、私は一人ひからびていくのだ。
 扉を見た。
 あの日閉ざされた母の後ろの空は限りなく青く澄んでいた。空は今も青いのだろうか?

 外を夢想する。
 期待と不安が入り混じった。
 誰かに会えるだろうか。ラジオの砂嵐を聞いては、誰かの声が混じっていないかと探した。
 
 世界が自分ひとりのものかもしれないという安堵。
 世界に自分ひとりだけかもしれないという恐怖。
 世界は、私に優しいだろうか?

 食料の残りが2週間分になった。
 私は扉に手をかけた。
 がくがくと冷や汗が出てくる。開けた瞬間、私は息絶えるかもしれなかった。
 後は手をひねるだけで扉は開く。
 外の空気が私を待ってる。
 ほら…

 
 
 私は扉を開けなかった。
 どっと汗が噴出す。はあはあと息を荒げた。
 へなへなと座り込んで、私は扉を見た。
 嗚呼、もしも。
 扉を開けた先で世界が死んでいたら私は耐えられまい。以前他に人類がいないと私は思ったことがある。あれは想像だから良かったのだ。想像の絶望の棘は丸い。
 けれど、拒絶できないほどの圧倒的な現実を見せられたら、私は耐えられない。
 ここに閉じこもっている間、私は心のどこかで自分と同じ状況の人間がいるかもしれないと思っていたのだ。絶望など、心の底からは出来なかった。もし心底絶望していたのなら私は生きていまい。
 期待していた−−−−−−−−−−−−−−
 心の、どこかで。
 自分と同じ境遇の人間がいると。
 絶望したふりを、悟ったふりをして心のどこかで期待していた。
 私は愕然とした。
 扉を開けたらその淡い期待すら打ち砕かれてしまうかもしれないのだ。
 そしたら、私はどうするだろう。


 あれから10日たった。
 もう食料が本当に残り少ない。
 毎日毎日扉を開けようとしては出来ずに睨む日々が続いた。
 絶望はこんなにも克服しがたい。
 ここにこのまま閉じこもって飢えて死ぬのもいいかもしれないと思い始めた。
 なぜだろう。
 世界はもう何年も前に正常に戻っているかもしれないのに。だとしたらこんなところで自分が悩んでいるのは馬鹿みたいだ。
 人々は普通に暮らしていて、自分だけがここで怯えている。ラジオからなにも聞こえないのは、ラジオが壊れているからだ。それが嘘じゃないと誰が言えるだろう。
 ふと、思いついてラジオを手繰り寄せた。
 ラジオは、いつからか、電池が入っていなかった。
 
 
 もうすぐ食料が尽きる。
 節約して食べてきたがもう限界だ。
 一日2、3枚の乾パンしか食べなかったせいか頭がふらふらする。水が飲みたい。
 ぼんやりとしたまま扉に手をかけて、開けた。
 扉は開かなかった。
 開かない!?
 私はもう一度ノブを捻った。
 扉は以前開く気配を見せなかった。
 私は叫びながら扉を叩いた。体当たりもした。
 ぜえぜえと息を乱しながら、もう一度、何度も、ドアノブを捻った。
 引っかいても体当たりを繰り返してもなにをしても。
 扉は開かなかった。



 水が飲みたい。
 なにか食べたい。
 だれか・・・・・
 ラジオから砂嵐が聞こえる。違う幻聴だ。しっかりしろ。
 ぱりぱりになった唇が割れて血の味がした。美味しい。
 扉の前に倒れたままの私は目で扉を見上げた。

 この扉が固く閉ざされる前に、私の母は言った。

「この扉を開けてはいけない−−−−−−−−−−−−−世界はこれから終わるのだから」
 
 オカアサン。
 私は泣いていた。
 この体のどこにまだ水分があったのかわからない。
 一緒にここに居てくれたらよかったのに。
 食料がもっと早く尽きたとしても私はずっと嬉しかったのに。
 
 もう一度だけ、扉に手をのばした。
 もう起き上がれないから、全身の力を込めて扉を押す。
 扉がやはり動かなかった。
 体から力が抜けていく。ああ、死ぬのだと思った。
 まぶたが重い。猛烈に眠い。

 そのとき、頬に風が当たった。
 風。そう、空気が動いていた。扉が開いている!

 私はまぶたを上げた。
 外の世界が垣間見えた。
 空の色は











 
 頬にあたる風は母の手の感触に似て、どこまでも優しかった。


【完】
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