ことば日和

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  さくら、さくら。  

 一年たったら迎えに来るから、そうしたらこの桜の下で待っていてほしい。
 そうあの人が言ったのは私が高校生の頃でした。
 あの人は、教師で、私は生徒。
 長い黒髪を縛りもしなかった私にあの人はなんども説教をしました。
 今ならそんなこともないのでしょうが、当時は三つ編にするのが当たり前だったのです。
 ふふ、たかが髪を縛らないくらいで風紀がなってないと言われるなんて、今の人にはぴんと来ないかもしれませんね。でも、それだけのことをするのに、とても勇気の要る時代だったのです。
 あの人は、まだ教師になって5年もたたない時期でしたが、生徒の扱いにはとても長けた先生でした。
 教師として慣れている、というよりは、生徒と同じ目線で語るように心がけていたようです。説教をするときも、必ず目線を同じ高さにしていました。食い入るように瞳で語りかけてくるのです。
 生徒にはとても人気のある先生でしたが、当時の私は彼がとても苦手でした。
 なんだか他の大人と違うのが、非常に扱いにくいと感じたのです。
 私を捕まえては、長い髪を櫛で梳かして丁寧に編みました。他の先生が頭ごなしに「三つ編みにしろ」というのとは少し違って、特に声を荒げるわけではありませんでした。
「榊、なんで三つ編みにしなきゃならんと思う?」
 私が無言で答えずにいると、先生は私の真っ黒な髪を編みながら言いました。
「女が結いを解いた姿を見せるのは、夜だけじゃ。好きな男に見せるだけにしておけ」
 そう言って編み終えると、ぽんと私の肩をたたいたのです。裸で歩いとるようなもんじゃ、恥ずかしいぞ、と。
 たったそれだけのことで、私は三つ編みにするようになりました。
 先生とは、ただそれだけの間柄でした。
 特に話をするわけでも、そばにいたわけでもありません。
 それでも、嗚呼、なぜでしょう、私がどこから先生を見ていても必ず先生は気づきました。目があうと私は慌てて視線をそらして…、私は自覚のない恋をしていました。
 先生はもしかしたらそれに気づいたのかもしれませんでした。
 ある日先生に呼び出されたのです。
 なにか悪いことをしたろうか、と心の中でいくつか指折り数えましたが、露見はしていないはずでした。大丈夫、ではなんだろうとほんの少し期待をふくらませて指導室に入った私に先生はこう告げました。
「榊、僕はいかんよ」
 前置きもなにもない、ただそれだけでした。
 それでもざっくりと心が抉られたように悲しいのと、見透かされていた恥ずかしさできっと私は真っ赤になっていたと思います。
「なにが、です」
 震える声で尋ねても先生は困ったように頭を掻くだけでした。
 馬鹿にするなと叫びそうになりました。この瞬間まで私は、真実恋をしていることになど気づかなかったのです。
 見透かされた恥ずかしさ。
 叶わなかった恋心のくやしさに縛られて、私はそのまま指導室を飛び出しました。
 桜の花吹雪が憎らしいほどに降り注いできたことを覚えています。

 私はまた髪を縛らなくなりました。
 そうすると、先生が結ってくれるのです。
 その時間だけは、先生は私のものでした。
 私の黒髪を、どこか上等な絹の糸のように丁寧に扱う先生は、その瞬間だけ私に傅いていました。
 あの日のことにはなにも触れませんでした。
 私も、触れませんでした。
 ただ、髪を結われるのが心底不快であるかのように押し黙って、そよぐ風の音を聞きながら、先生が髪を結うその感触を楽しんでいました。
 私が先生を独占できるただひとつの時間でした。

 桜が散って、銀杏がその黄色の扇で公道を埋め尽くして、小雪がちらつくようになっても、先生は私の髪を結いました。
 先生は日課だと思っていたかもしれませんが、私にとって、それは儀式でした。
 とてもとても大切な、儀式でした。

「榊、お前そろそろ自分で縛らんか」
 と先生は言いました。
 私が返事をしないのを否定と受け取ったようで、小さなため息をつきました。
「僕がいつも髪を触ってもいかんじゃろ。そうだ、家庭科の真田先生にでも頼もうか」
 真田先生は校内で人気のある優しい女の先生でした。私も嫌いではありません。それでも、私は烈火のごとくに怒ったのです。
 先生じゃなきゃ嫌だ、どうしても縛れと言うのならこんな髪いらんと喚いて、鋏を手に取って、じゃきんと一思いに髪を切ろうとしました。
「榊!」
 先生はとっさに鋏の刃をつかんで、私から鋏を取り上げました。
 強く握ったせいか、刃先からすべるように先生の血が流れました。
 私は呆然とそれを見つめていました。ああ、なんてことを。謝らねばと思うのに、喉がからからに渇いて声が出ませんでした。
「榊は強情じゃなあ」
 先生は困ったように笑って、私の頭を撫でました。
 私の髪は、結い途中で席を立ったためにひどく乱れていたので、先生はそれを指先で直しながら私の頭を撫でました。大きくて、ごつごつして、それでも優しい手のひらでした。
 涙がぽろぽろと零れるように出てきたのを覚えています。
 唇を噛み締めて、ただただ涙を流す私の頭を先生はいつまでも撫でていました。
 とても嬉しかったけれど、私の想いは叶わないのだと心から思い知った日でもありました。

 私は意識して先生と距離を置くようになりました。
 髪を自分で編んで行く。それだけで先生との時間は少なくなりました。
 視界の隅にでも先生が入れば、そっと移動を繰り返す。そんな毎日でした。
 桜がまた咲いた頃、その日は早起きしたので随分早めに学校に行きました。
 満開の桜が咲き誇っていました。
 教室で編めばいいと思ってそのままにしていた黒髪が、風にすくわれて枝に絡みました。私の背より高いところ、手を伸ばしても届きませんでした。
 髪をひっぱってみたり、背伸びして手を伸ばしてもどうにも届きません。散る桜の花びらがまるで私を笑っているようで、随分くやしかった。
「だから編んで来いというたろうが」
 どこから見ていたのか、先生がひょいと現れて、枝に絡んだ髪に手をかけました。
 私はただただ唖然として先生を見ていました。
「ああ、これは。いかんなあ」
 先生はそう呟くと、桜の枝をぽきりと折りました。花を二房つけたかつけないかの小さな枝に私の髪が絡みついていました。そのままそれを私の頭にあつらえると、先生は「直してやるからおいで」と私の手を引きました。
 私の手をつかんだ先生の手のひらの大きさに力強さに驚いて、私は握り返せなかった。少しでも握り返しておけばよかったと後で悔やんだものです。
 まだ誰もいない教室で、先生は私の髪を梳きました。
「桜、皆には内緒な」
 そう言って私の髪を丁寧に解きほぐすと、かつてのように結ってくれました。
 このまま時間が止まればいいと、私は切に願いました。

 時間は止まりませんでした。
 それどころか、私から先生を奪っていったのです。
 次の春で先生が転任するという噂を聞いたのは、その春も間近な年明けでした。
「ああ、そうよ」
 真偽を問うた私に先生は言いました。
 私は目の前が真っ暗になりました。
 次の春が来てもまだ卒業まで一年ある。
 先生の居ない学校は私にとって限りなく空虚で、意味をもたない気がしました。
 私の顔色からそれを読んだのでしょう。先生は私を外に連れ出しました。
 校庭の桜の木は葉も花もなく、それが一層寒々しさを感じさせました。
「この枝だったか、春に」
 校門から3本目の桜の木を見上げながら先生は言いました。
 私の髪が絡まった桜。先生は懐かしそうに目を細めました。
「…前に髪を結う理由を言ったな。覚えとるか?」
 私が頷くと、そうかと言い、なぜか目をそらして咳払いをひとつしました。
「髪はちゃんと結え。僕はいなくなる」
 だったら切る、と私が答えると僕が困ると言いました。
 意味がわからなくて小首をかしげると、あの人は心底困ったというふうに眉を寄せて頭を掻きました。
「だから、僕だけにしておけと言ってる」
 結わぬ姿を見せるのは―――――――――と。
 轟、と桜が唸ったのを覚えています。
 目の前の景色が急に開けて輝きを持ったようでした。
 一年たったら迎えに来るから、そうしたらこの桜の下で待っていてほしいとあの人は言いました。
「榊は桜が一番似合うんじゃ。黒髪に桜の色がよう映えて」
 カカと笑うあの人の顔は冬だというのに真っ赤で、私はそれを見てようやく笑ったのを覚えています。

 桜が舞う頃、あの人は約束だけを残して遠くの町へ行きました。

 赴任先で事故にあって死んだと聞いたのは、翌年の冬のことでした。
 嘘だと思って歯牙にもかけませんでしたが、それまで届いていたあの人からの手紙が届かなくなりました。
 それでも私は信じて桜の木の下に立ち続けました。
 やがて花が落ち、葉桜になっても、あの人は現れませんでした。
 翌年も、その翌年も現れませんでした。
 ある日待っている間に風に吹かれた黒髪が桜に絡んでしまって、私一人では解けませんでした。
 いつかのようにあの人が現れるかもしれないとほんのり期待して、それでも来ないことで、私はようやくあの人の死を理解したのです。
 私は桜が嫌いでした。
 いやな想い出のそばにはいつも必ず桜が居て、なのにあの人が褒めるから邪険にできない。
 今またあの人がいないのだと知らしめたのも桜なら、こんな木枯れてしまえばいいと私は思ったのです。
 髪を絡ませたまま、わあわあ泣いて桜にやつ当たっていたときでした。
「だからちゃんと結えというたろうが」
 懐かしい声がして、私に影を作りました。
 涙を拭かないまま振り返ると、そこにあの人がいました。
 私の髪を器用に解いて桜から解放し、私の上に降り積もった花びらを払うようにどけました。
「ずいぶん待たせた」
 そう言ってにっこり笑ったのです。
 夢でも見ているのかと頬をつねりかけて、夢でもいいじゃないかと思い直しました。

 あの人は待ち合わせにはずいぶん遅れてきたけれど、そのあと何十年も一緒に過ごしました。
 季節には夏も秋も冬もあるのに、どうしてだか大切な想い出の隣にはいつも桜が咲いていた気がします。
 去年、あの人の墓参りに行った時もそう。舞い散る桜のなかに、一瞬あの人を見かけたのです。
 錯覚だとわかっていても、嬉しい錯覚でした。
 
 今年も桜が誇らしげに咲き誇って、きっとまたあの人に会える。そんな気がします。
 

【完】
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