暗闇の童話

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  4月 渇望する手  

 私と父が住んでいた洋館の庭は広く、あちこちで咲き乱れる四季折々の植物が目を楽しませてくれました。ただ、私が生まれてからは手入れされておらず、私の成長に合わせて庭はどんどん荒れていったようです。ようです、というのは、私はそもそも綺麗だった庭を見たことがなく、雑草が隙間なく映えた庭ですら窓の隙間からそっと見ることしかできなかったから推測する以外にないのです。
 それでも、私は色とりどりの花が好きでした。
 特に、さくら。
 淡いピンクの花弁がはらはらと散り、やがて花吹雪と化す様は、思わずにやりとしてしまうほど好きでした。
 今年もそんな季節が来たと、私はヤスヒロがくれた白紙の絵本を持って、いつもの部屋へと走りました。
 洋館の中は真っ暗ですが、私には絨毯も壁も扉もよく見えました。全てが灰色に染まって、目にやさしい気がします。
 ハハの部屋。
 扉を開けると、やはりヤスヒロはハハに会いに来ていました。相変わらずの黒髪に、少し神経質そうな眼鏡。真っ黒な学ランに真っ黒な靴はカラスのようでした。
「ほう、桜かい?」
 私の顔を見て、ヤスヒロは言いました。ヤスヒロの後ろ、真っ暗な夜空に花弁が散っているのが見えます。私は頷いて、絵本を取り出しました。クレヨンを持って、書こうとします。ヤスヒロは窓枠からのけぞるようにして外を見て、下の部屋からのほうがよく見えるんじゃないかと言いました。小さな台を持って、ヤスヒロの隣から身を乗り出すと、確かに一階からの眺めのほうが良いようでした。けれど、せっかくヤスヒロが来ているのにこの部屋から出るのは嫌です。そう思って、でも風が吹くたびに桜が散って、ああきっと明日までは持たないのだろうなと思うと、私はじれったくなり、少しむくれて窓枠を握り締めました。そんな私を見下ろしていたヤスヒロは、顔を上げて桜を見て、少し目を細めました。
「行こうか。下の部屋」
 言うが早いか私を置いてさっさと歩いていきます。
 私は慌ててクレヨンと絵本を持ちました。ヤスヒロの後を小走りに追いかけます。父に折られた首がぷらぷらと揺れました。視界がぐるぐるします。それもなんだか嬉しいことのような気がしました。
「桜の木の下には死体が埋まっているという。知っているかい?」
 父の腐臭に顔をしかめながらもハハの部屋の真下についたヤスヒロは、雨戸を外して満足そうに桜を見上げました。どうせここから見るなら庭に出ればいいと私が言うと、ヤスヒロは意外そうな顔をして私を見ました。
「君も出たい?」
 私はびっくりしました。言われて初めて気付いたのです。ここから出ようと、考えたこともなかったこと。
 暗く閉じた洋館、音の無いこの場所だけが、私が生きることを許された場所でした。
 わからないと首を振ると、じゃあ今日はこのままだとヤスヒロは微笑みました。
「初めて知った時はなんと素敵な話だと思ったがね。そこここで安易に使用されているのを見ると、とことん興醒めだ。嗚呼、そんなことはまるでないのだと思い知らされる。言い伝えですらない。昔話にも並ばない程度の、いずれ消える話だとね。
 人は目に映る全てが現実だという事実に耐えられない。世界がこれっぽっちだなんて、信じたくはないのさ。
 だから、誰もがそこに適当な理由を見出して、伝説を作りたがる。
 桜の木の下には死体が埋まっている。素敵な幻想だ。あるいは、本当に誰かが埋めたのかもしれない。
 初めこそ真実のベールをかぶっていたはずのそれは、何度も口の端に登ることでやがて磨り減り、そして」
 風が吹きます。桜がざあっと揺れて、花弁が夜空に散りました。満月がほのかにピンク色をした桜の花を鮮やかに照らし出します。
「ただの噂になる」
 冷酷な瞳で桜を見て、ヤスヒロは呟きました。真っ黒な髪に真っ黒な服。学ランの肩に、さくらの花弁が一枚、風に吹かれて乗りました。
「ある家で、男の子が生まれました。次いで、女の子も生まれました。女の子と引き換えに、母親は息を引き取りました。ところが、近所の人は気付きました。男の子の姿が見えません。それどころか、ある日を境に、女の子も、父親も姿を見せなくなりました。あそこの父親はおかしかった。まさか殺してしまったのではなどと、まことしやかな噂を立てた人々は、しかし、洋館に近づくことはありませんでした――きっと引っ越したのだと自分に言い聞かせ、今では傍を通ろうともしません」
 それは私の家のことでしょうか。ちょっと不思議でしたが、私には上の兄弟がいませんでした。
 ヤスヒロは真っ暗な洋館の中を見ながら、ひとりごちるように言いました。
「人はそこに秘密を作りたがる。蓋を開ける勇気もないくせに、病的にね」
 病んでいるのだ、とヤスヒロは言いました。
「ご覧。あの桜に死体は埋まっていない。伝承は死んだ」
 ヤスヒロが桜を指差します。朧がかった月を目指すように、桜の木が枝を伸ばしていました。
「木はなぜ枝を伸ばすか。君は知っている?」
 知らない、と首を振ります。父に折られた私の首は、頼りなく揺れました。僕も知らないとヤスヒロは言い、ただ、と付け足しました。

「僕には、埋められた死者のもがく手に見える。天に帰ろうとしているんだね」

 いつも決めつけで話すヤスヒロが、穏やかな口調で言ったこと。
 その横顔が、どこか寂しげだったこと。
 桜が私を幻惑したのでしょう。私はなぜか、それは本当のことだと思えたのです。


【暗闇の童話 4月 渇望する手】
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