暗闇の童話

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  5月 いびつな若葉  

「あなたは猜疑心の強い人。私の愛の言葉さえ疑う。
 いいでしょう、それでも私はあなたの傍で愛を囁き続けましょう。
 私は、あなたを愛しているのです」
 ヤスヒロは唐突にそんな言葉を口にしました。
 手にした本を読んでいるのかと思ったのですが、どうやら関係ないようです。ヤスヒロの視線は、私の絵本にありました。
 ヤスヒロからもらった白紙の絵本。もう何枚か絵を描いて、今日は庭にある不思議な木の絵を描いていました。
 一本の木なのに、葉の色が違うのです。青、赤、紫……どこか闇を含んだような暗い色合いをしています。洋館の崩れた隙間から庭を見下ろして、初めてその木を見つけた時、私はてっきり誰かがペンキで色を塗ったのだと思いました。
 けれど、風が吹こうと雨が降ろうと、色が落ちることはありません。そうこうするうちに新しい葉が芽吹いて、私はそれが生来の色であることを知りました。
「その木にまつわる話を知ってる」
 ヤスヒロは私の描きかけの絵を見て言いました。
 私が黙っていると、ヤスヒロは手にした本にも構わずに話し始めました。暗い洋館の中に、ヤスヒロの声が静かに響いていきます。それは、私が好きな瞬間でもありました。
「人間不信の男がいた。結婚を誓った相手が男の親友と逃げたのだ。
 幸福から一転、どん底に叩き込まれた男は、もう誰も信じないと誓った。そんな男の前に、彼女は現れた。
 彼女は慈母の如き優しさを以って男を包んだ。
 柔らかな笑み、穏やかな言葉。愛してると囁かれる度、男は揺れた。
 もう自分は人を信じない――否、もう一度だけ。ああ、だけど」
 ヤスヒロはぱたんと本を閉じました。
「僕に言わせれば、不毛極まりない。揺れた、というその時点で男は自分が人を信じているのだと認めるべきだった。本当に人を信じていなければ、彼女の言葉に揺れるわけもない」
 不快感を滲ませて、眼鏡の位置を直すと、ヤスヒロは月を仰ぎ見ました。
「男は次第に幻影を見るようになった。愛してると昼間笑う彼女が、夜になれば自分を嘲り笑うのだ。夢だ、と自分に言い聞かせる。あの人が、そんなことをするわけがないとね。
 けれど夢は消えるどころか肥大化していった。
 昼間、男に優しく微笑む彼女が、夜になると枕下で呪詛を吐く。
 男の世界が揺らぐ。
 思いつめた男は、ついにある日……」
 ふいに言葉を途切れさせて、ヤスヒロは庭を見ました。片隅にあるはずの、あの木を探しているようでした。
「彼女に告白した。
 自分はなんと汚いのだろうと、涙しながら。
 君の言葉を嬉しく思うのに、どうしても信じられない。呪詛を吐く君の幻さえ見るのだ。
 すまない、すまない……と繰り返す男に、彼女は告げた。
 私を庭先に埋めて御覧なさい。私の言葉は枝葉となり、あなたに還るでしょう、と。
 それを以って私の真実を知ればいい。
 果たして、男は彼女の言葉通りに彼女を庭先に埋めた。同時に呪詛を吐く彼女の幻も止んだ。男の中には、優しい彼女の思い出だけが残った。春が訪れるまでは」
 真っ暗な庭からは、小さな虫の音が聞こえます。
「ごらん、不実の証だ」
 ヤスヒロが見つめるその先に、その葉はありました。
 赤・青・緑……一本の枝から生じたものとは思えないほど、異なる色を持った葉達。どの色も、まるで闇を含んだように濁った色合いをしていました。
「男は初めて知った。
 夜毎呪詛を囁いていたのも、間違いなく彼女なのだと。
 愛の言葉を否定していた男は、それでも悪意に敏感だった。
 彼女は男を愛していた。
 男の心に届くのならば、それが呪詛でも良かった。自分という人間をその瞳に映してくれるのならば。
 けれど、彼女は自分が彼の楔になっていることもまた承知していた。
 庭先に埋めるよう言ったのも、自分が彼を苦しめていると知っていたからだ。
 彼女は彼を解放する代わりに、自分の真実を知って欲しいと願った」
 ヤスヒロはわずかに口を歪めました。冷め切った目が、彼女を見下げています。

「恨みがましい色だね。愛していたのは自分じゃないかと言いたくなる」



【暗闇の童話 5月 いびつな若葉】
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