獣−ビースト!−

【4】

 目の前に迫った西のヘビの口が自分を飲み込まんばかりの勢いで閉じ、ファルコは慌てて羽ばたきました。
「くっ」
 かろうじて身は無事でしたが、ファルコの自慢の羽が何枚か引き抜かれてしまいました。西のヘビはとても残念そうに、でもどこか嘲るような目をしながらファルコの羽を飲み込みました。
「トリ!」
「隊長!」
 雷牙と空の隊の鳥達が口々に叫びました。
「騒ぐな、大丈夫だ」
 駆け寄ろうとする彼らを、ファルコが片翼を広げて制しました。
「ダイジョブなの?」
 雷牙が少々がっかりしたように言いました。とても残念そうに、いつの間にか広げていたトリ鍋セットを片付けます。
 視界の片隅に映ったそれを、ファルコは見なかったことにしました。
 肌が粟立つのも気のせいです。これは鳥肌というやつです。生まれつきです。
「空の隊は事態を王宮の者に告げよ。皆を逃がせ」
 ファルコは西のヘビを睨んだまま言いました。西のヘビは長く赤い舌をチロチロと動かしながらファルコとの距離を測っています。隙を見せれば飛び掛ってくる気なのがよくわかりました。
「はっ!」
 翼で敬礼をした鳥達が一斉に飛び立ちました。
「たったの二匹で私に勝てると?」
 羽ばたきの音が止み、静寂が戻ると西のヘビは言いました。
 くっくっと押し殺したような笑いを漏らしながら。
「馬鹿にしないでくださいよ」
 射殺すような視線を受けたファルコと雷牙は、それを正面から受け止めました。


 門での騒ぎはすぐに王城中に知れ渡りました。
「伝令!伝令!ケルト王子、失礼します!!」
 赤と黄色と緑の極彩色のオウムがけたたましく王の間に飛び込んできました。くるくるとせわしなく玉座の周りを飛びながらケルト王子に話しかけます。
「西のヘビです!王子、お逃げください!」
 慌てたオウムと違って、ケルト王子の反応は静かなものでした。
「西のヘビか。噂は聞いている」
「門番が大怪我をしました!現在ファルコ隊長と雷牙が交戦中です!どうか早くお逃げを!」
「ここは私の城だ。なぜ私が逃げる」
「しかし!」
 なおもはばたきを止めずに飛び回るオウムに、ケルト王子は言いました。
「お前はよく口が回る。私は事態を正しく理解したから、他の者に逃げるよう伝えるといい」
「逃げてくれますか?」
 オウムはくるくる回ったせいで、ぐらぐらする視界のままケルト王子に尋ねました。慌てすぎるのが玉に瑕だとよくファルコに怒られるオウムでした。
 ケルト王子はなにか言いましたが、目が回っていてよく聞こえません。でもオウムは、その笑顔がとても素敵だと思いました。
「頼んだぞ」という言葉だけがはっきりと聞こえ、オウムは反射的に「わかりました!」と叫んで王の間を後にしました。「大変だ、西のヘビが来たぞ!」と叫びながら。
 オウムを見送ったケルト王子は、不安そうに王の間を覗いているガゼルとシマウマの侍女たちを見ました。
「聞いての通りだ」
「王子…」
 西のヘビの恐ろしさは、森中に知れ渡っていました。大きく太った西のヘビは、人はもちろん肉食獣すら敵わないと聞きます。草食動物の本能が、逃げなければと告げているのを懸命にこらえているせいで、侍女たちの足は細かく震えていました。
 それを見て取ったケルト王子は、玉座から降りて侍女たちに歩み寄りました。ひとりひとりを撫でながら、語りかけます。
「お前達には早く駆ける足がある。王城の中には足の遅い者もいるだろう。背に乗せてやってくれ」
「王子…」
「私は大丈夫だ」
 ケルト王子はそう言って微笑みました。


 王城内の雰囲気がやたらに慌しいことに、ムーアは気づいていました。自分の脱走がばれたのかと思いましたが、どうやら違うようです。ざわついた空気が王城全体を包んでなんだか落ち着きません。
 と、その時ムーアの視界に空の隊の鳥がはばたいてくる姿が飛び込みました。
「うわ、やべ!」
 ムーアは、とにかく手近にあった扉をでたらめに開けて飛び込みました。鳥に見つけられる前に飛び込んだ部屋。その光景に、ムーアは目を見張りました。
 目の前にあるのは、人間の武器。鉄の剣や、弓矢。煙幕用の筒も見受けられます。
 その部屋は王城の武器庫でした。
「西のヘビが来たぞ!皆逃げろ!」
 空の隊の鳥が叫びながらムーアの居る部屋の前を通り過ぎていきました。
 羽ばたきと共に獣の駆ける足音がします。
「マジ…?」
 目の前の武器を呆然と見つめながら、ムーアは呟きました。


 ケルト王子はガゼル達が駆け去るのを見送って、その顔から笑みを消しました。
 もう自分の鼻でもわかるほどに血の匂いがする。それがひどく不快でした。獅子であったグフ王、その後を継ぐ自分には爪も牙もないけれど誇りだけは持ち合わせている。自分の胸を満たす感情が怒りだとケルト王子は知りました。
 許さない…!
 森の木々の一片に至るまで自分のものだと心のどこかが叫びました。
 傷つけるなど言語道断です。
 怒りにかられたケルト王子は、雷牙達のいる門を目指して駆け出しました。


 ファルコはこれまで、苦戦らしい苦戦というものをしたことがありませんでした。いいえ、グフ王の統治下では平和そのものだった。だから自分が井の中の蛙だったのかもしれないと、今初めて思いました。
 自分は強い気でいた。気でいただけだった。
 目の前の西のヘビがぐったりとした雷牙の首にその尾を巻きつけます。雷牙の体が目の前で宙に浮いていく。ファルコにはそれを止める術がありませんでした。翼は傷つききって、もう飛べないかもしれない。雷牙もよく戦った。けれどそれ以上に西のヘビの力は強かったのです。
 西のヘビが残酷な目を嬉しそうに細めました。
 ゆっくりと力を入れると、雷牙の首の骨が軋みます。
 その音を、西のヘビは恍惚の表情で聞き入りました。
 首の骨が折れる音は、西のヘビの気に入りの音楽でもありました。最後の感触がなくなるあの瞬間がたまらなく好きだったのです。
「止せ…!」
 ファルコが折れた翼を広げて立ち上がろうとしました。
 雷牙をなくしたらケルト王子がどれだけ悲しむか。想像するのもいやでした。
 いやなのに、どうして今自分が立てないのか、ひどく歯がゆかった。
「雷牙を離せ」
 凛とした声が城門に響きました。
 その声を聞いた西のヘビの口がいやらしく歪みました。いびつな笑みの形をした唇を、赤く長い舌がちろちろと舐めまわします。
 王城の門、その入り口にケルト王子が立っていました。
 毅然と、揺るがぬ視線はかつてのグフ王を思わせる強い意志を持っていました。風になびく金髪が獅子を思わせます。
「ケルト…様…!」
 ファルコが呻きました。こんなところにいてはいけない。ケルト王子には爪も牙もないのだから。だから逃げてくださいと申し上げたのに。
 それでもファルコは、ケルト王子の姿を見たことで自分の中になにかが湧き上がるのを感じました。
 立たなくては。
 自分には嘴がある、翼がある、この身がある。
 せめて盾となるために立たなくては、自分が成り立たない…!
 ファルコは全身の力を集めました。よろよろとよろけながらも立ち上がります。
 その姿を見た西のヘビの瞳が細められました。
 ゆっくりと、とてもゆっくりと、西のヘビの尾が雷牙の首から外れました。
「初めまして…王子」
 そしてさようなら、と西のヘビがケルト王子の襲い掛かった瞬間、その口の中に矢が刺さりました。
 人間の使う、鉄尻の矢。
 誰もが動きを止めた瞬間を狙って、今度は煙幕が張られます。濃い煙幕の中で、西のヘビはケルト王子を見失いました。煙に混ぜられた香料のせいで鼻も利きません。
 ようやく煙が晴れた頃には、門には西のヘビ以外の誰もいませんでした。
Copyright (c) 2005 mao hirose All rights reserved.