獣−ビースト!−

【2】


 ティノスの二つに割れた体の中に入ると、暗くひんやりした道が続いています。水の体を持つティノスのこと、中に足を踏み出したら沈んでしまうのではないかとムーアは心配したのですが、それはゼリーのように潤んだ弾力を持つ、不思議な道でした。雷牙が嬉しそうにはしゃいでいます。ケルト王子は迷わず奥へと進み、スノウ・マンは一歩歩くたびに生気を取り戻していくようでした。
 しばらく歩いたその先に、ぽっかりと空洞が開いていました。氷室です。
 氷室とは、冬の間に降った雪などを集めておく場所です。夏の間に涼んだり、氷を取り出したりもします。本来であれば冬と夏といったように季節のある国だけが持つものですから、ムーアが訪れたのはもちろん初めてのことでした。
 さっきまで炎天下の中、燃えるような空気を吸っていたのが嘘のようです。ひんやりとした空気が、肺から体中に染み渡るようでした。壁も、床も、むき出しの岩のようですが、うっすらと氷の膜が張っています。ヒカリゴケがぼんやりと洞窟内を照らしているせいで、洞窟は薄明かりを保っていました。
「こんな場所があるなんて」
 ムーアの呟きに、ケルト王子が振り返りました。
 ヒカリゴケの青い光が、ケルト王子の顔を照らします。
「ああ、出来るなら皆をここに案内したいが、何分この狭さだ」
 確かに洞窟の中は広くありませんでした。今いる人数でも全員が足を伸ばして座るのは難しそうです。
「嗚呼!生き返る!」
 冷気に触れたスノウ・マンがここぞとばかりに深呼吸しました。顔に見る見る生気が満ちていきます。
「よかった。森にいる間はここにいるといい」
 そう言うケルト王子の顔は、どこか疲れているようでした。ムーアの視線に気づいたケルト王子が顔を上げます。なんだ、と問いかけるその顔は、もういつものケルト王子のものでした。
 だからムーアは、そう見えたのはヒカリゴケのせいだろうと、一人で納得したのです。



 しばらく滞在することになったスノウ・マンの相手をするよう言いつかったのは、他でもないムーアでした。なぜオレが、と抗議をすると、ケルト王子は黙って雷牙を指差しました。
「あれが食わぬよう、見張れ」
「心配なら繋いどけよ」
「冗談だ。実は、ひとつ…」
 頼みが、と言いかけたケルト王子は言葉を飲み込みました。
「お前を使ってやろうと思ってな」
「へいへい。王様の命令とあらば、なんでもしますよ」
 横柄な言い方が王子らしいとひどく納得したムーアは、面倒くさそうにその場に座り込みました。氷室の涼しさを知ったせいか、地上のむし暑さが一層ひどく感じられます。
「ケルト様が立っているのに座るな!この無礼者が!」
 ムーアを怒鳴り飛ばそうとしたファルコが、立ちくらみを起してよろめきました。ケルト王子は、ファルコを日陰に入れるよう侍女のガゼルに言付けてから、改めてムーアに向き直りました。
「この暑さは、さすがに異常だ」
 ケルト王子が調べたどの文献にも、ここまで熱くなった記録は残っていませんでした。試しに森で一番の物知りであるフクロウ博士に教えを乞いましたが、やはり知らないと言います。
 それで、ケルト王子は決めました。
「で、何をやれって?」
 暑さに上着をあおいでいるムーアを、ケルト王子はしばらく無言で見つめました。
 ムーアの背に、嫌な汗が流れます。
「げ、おい、まさか。人身御供になれってんじゃないだろうな」
「馬鹿を言え。神だって供物を選ぶ」
 一瞬ほっとしたムーアは、しばらく馬鹿にされたことに気がつきませんでした。
「おい、そりゃどーいう意味だ!」
 むっとして抗議するムーアに、ケルト王子は言いました。
「お前に多くを期待なぞするか。立ち会え」
「どこに?」
 夜の祠だ、とケルト王子は言いました。



 古来より、森の王達が祈りを捧げる場所として夜の祠はありました。清流を通じてティノスの神殿にも通じるその場所は、祠というにはあまりにそっけない造りでした。ただ巨石を組んだのか、あるいは自然にそうなったのか、岩の隙間の天窓から、満月が見えます。それが唯一の光でした。その月に牙が届いたなら、どんな願いも叶うと言われています。
 夜になっても森の暑さは収まらず、それがもう何日も続き、森の大半の動物達がバテていました。植物達も、太陽に焼かれ、生きながら枯れゆくような有り様です。
 王子が事態を憂慮するのも当然のことでした。
 祠の中、月の真下に立ったケルト王子は束ねていた髪飾りをほどきました。ゆったりと輪を描くように、王子の長い髪が広がります。
「森の王として、祈りを捧げる」
 王子が月に向かって両手を伸ばしました。

「こういうのって、もっと盛大にやるもんかと思ってたぜ」
 立会人を見渡したムーアは呟きました。ファルコに雷牙、と自分だけというのは余りに寂しい気もします。そばを流れていたせせらぎが泡だって、ティノスが現れました。ティノスは、そっと、祈るように胸の前で手を合わせています。
「王子…」
 水の震えを思わせるようなティノスの声は、なにかに怯えているようでした。
「単にお祈りするだけだろ?」
 心配性だな、とムーアが笑いました。ファルコが厳しいまなざしでムーアをにらみます。
「ケルト様は、お前に何も言わなかったのだな」
「なに?」
 ファルコが視線を祠に戻しました。
 祠の中では、ケルト王子が祈りを捧げ続けています。
「王の役目は、森の平和を守ることにある。必要があれば、災厄をその身で受ける覚悟も必要だ」
 ムーアは、自分の顔から笑みが瞬時に引いたのを悟りました。
 ファルコが言うその言葉の意味を、理解したのです。
 このところの森の暑さを、王子が憂いているのは知っていました。
「この祠は、そのためのものだ」
 ファルコが悔しそうに俯きました。弾かれるように、ムーアはケルト王子に向かって走り出します。なにをするかはわからない。でも、どうせロクでもないことだとムーアの直感が告げています。ムーアの目の前に、ティノスが立ちはだかりました。ティノスが手をいっぱいに広げたせいで水の壁が現れました。押してもゆらぐだけのその壁のせいで、ケルト王子に近づくことが出来ません。
「どけよ」
「いいえ、王子の邪魔はさせません」
 ティノスが震える声で言いました。なにが起きたのかわからない雷牙は、ただきょとんと事の成り行きを見守っています。
 ムーアが尚もティノスに食って掛かろうとした時、ティノスの透明な水の体の向こうでケルト王子が振り返りました。
「誰も責めるな。私の意志だ」
 ケルト王子の額には、うっすらと汗がにじんでいました。
 ムーアは、ただ言葉も無くケルト王子を見ました。
「お前には妹がいたそうだな。大事だったか?」
 目が合った王子が微笑みます。
「私は、皆が大事だ」
 ケルト王子が月を睨みました。毅然とした声で、最後の言葉を言い放ちます。

「森の災厄を、我が身に」

「馬鹿野郎――――――――!」
 祠がまばゆいばかりの光に包まれた瞬間、ムーアはただただ叫んでいました。



 その夜、風が吹きました。
 涼やかさをもったその風は、これまでの湿った暑さを森から追い出そうとしているようでした。
「ああ、涼しい」
「よかった」
「よかった」
 森の至るところで、暑さから開放された動物達の安堵の声が漏れ聞こえました。
 虫達の鳴き声に混じって聞こえるその声を、ムーアは確かに聞きました。
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