獣−ビースト!−

【3】


 祠の中の光が消え去った時、ケルト王子はその場に倒れ伏していました。森の熱を一身に受けたのです。小さな体が、信じられないほど高い熱を帯びていました。そんなケルト王子の様子を見て、ようやく雷牙はただ事ではないのだと察したようです。ケルト王子の周りを不安げに輪を描きます。
「おい!」
 ケルト王子を抱き上げようとしたムーアは、その余りの熱さに手を離しました。すかさず手を伸ばしたティノスが、ケルト王子を包み込んで自分の神殿へと運びました。ティノスの鍾乳洞の神殿で涼む動物達にその姿を見られぬよう、そっと王子を氷室に送ります。
 驚いたのは、スノウ・マンです。
 突然運び込まれたケルト王子の姿を見て、おろおろとうろたえました。
 ファルコが氷をケルト王子の額に乗せても、あっという間に溶けていきます。
 人間だから耐えられるようなものの、自分だったらとっくに溶けているに違いありません。そう思うだけでスノウ・マンの体から、冷や汗があふれ出ました。
「ダメだ、下がらない」
 ファルコが絶望にも似たため息を漏らしました。
 森の余熱を集めたのです。そうそう簡単に下がるわけがありません。
 そうこうしている内に、ケルト王子の体力がどんどん削られていきます。
「見苦しくてすまないな、客人」
 うっすらと目を開けたケルト王子が非礼を詫びました。
「とんでもない!」
 スノウ・マンは、慌ててかぶりを振ります。その様子を見たムーアが、スノウ・マンの体を掴みました。
「ひっ、なにを!?」
 氷枕の代わりにでもされようものなら、ケルト王子の額の上が臨終の地です。スノウ・マンはぶるぶると震えました。
「どこから来たって?」
「は?」
「お前の国だよ」
「氷河の国で…。ああーっ!」
 スノウ・マンは閃きました。
 ムーアの手をすり抜けて、ケルト王子に擦り寄ります。
「私の国に”女王の息吹”がございます。全ての熱を下げる氷河の風です!」
「なんだと!」
 ファルコが叫びました。それがあれば、あるいは王子の熱が下がるかもしれません。
「ケルト様、ご命令を!」
 ファルコが翼で礼をしました。
 ケルト王子がとてもだるそうに瞼を上げます。氷室にいるというのに、王子の息は熱を持っていて、口から吐かれた後もなかなか冷めませんでした。氷室の氷が自分のせいで溶けなければいいがと、ケルト王子は考えました。
「…ダメだ」
 ケルト王子の言葉に、ファルコは目を剥きました。
 もしや、王子は熱で冷静な判断を下せないのではと心配します。
「許さぬ。…お前の国は、寒いのだろう?」
 ケルト王子が、スノウ・マンの雪で出来た体を見つめながら言いました。
「獣達では、急激な温度変化に耐えられまい」
 ため息をつくように、王子は言いました。
 ファルコは、ケルト王子を疑った自分を恥じました。けれど、このままでは王子が死んでしまいます。どうしようもない、とファルコは思わず下を向きました。
「オレがいるじゃないか」
 ムーアがスノウ・マンを抱えました。
「貴様!?」
 ファルコが驚きます。
 ケルト王子が、気だるげな視線でムーアを見ました。
 唇がうすく開いても、言葉が出てきません。
「使ってやるんだろ?」
 ムーアが八重歯を覗かせて笑いました。どこか王子を挑発するような笑みです。
 しばらく無言でムーアを見たケルト王子は、長い長いため息をつきました。
「…仕方あるまい。そこまで言うのなら、使ってやろう」
「けっ、お願いしますって言えよ」
 氷室から出ようとするムーアに、ケルト王子が声をかけました。
「おい」
「なんだよ」
「雷牙を連れて行け。それから」
「それから?」
 ケルト王子は、熱さを持て余すように天井を見ました。薄氷をまとった岩が、間違いなく氷室にいるのだと告げています。けれど、冷えているはずの空気は、喉を通り過ぎる頃にはとっくに熱気の塊になっていました。
 熱い。
 くらくらするような熱の中で、ケルト王子は言いました。

「大した期待はしていない。身の程はわきまえろ。…茶は、残さずに飲め。それが世界の礼儀だ」

「わかった」
 大きく頷いて歩き出すムーアの後を、雷牙が小走りで追いかけました。
「ケルト、なんて?」
 ムーアは歩きながら答えました。
「逃げていい、あきらめていいから、無理はするなってさ。それから」

『…茶は、残さずに飲め。それが世界の礼儀だ』
 
 これだけはどうにもわかりませんでした。
 やっぱり熱でどうかしたんだろうと、ムーアは深く考えませんでした。
 この時のムーアは、まだ、森の外に広がる世界を知らなかったのです。



 ムーアは荷造りを始めました。と、言っても持っていくものなんてそんなにありません。ただ、体が冷えぬよう、ありったけの衣類を雷牙の分も麻袋に詰め込みました。ファルコに森からの礼だと、木の実を身の丈ほども積んで渡された時は辟易しましたが、木の実は瞬く間に雷牙が食べてしまったので、女王には森で一番綺麗な宝石を渡すことにしました。
「道案内は、お任せください!」
 スノウ・マンがはりきって胸を叩きました。
 意気揚々と氷室を出た彼は、森の王国の太陽に照らされた瞬間、その熱気を思い出して溶けかかりました。
「大丈夫かよ」
 ムーアがスノウ・マンを腕に抱えました。
 異常な熱気が収まったと言っても、氷河の国の住人にとって、やはりここは暑いのです。
 雷牙が興味深そうに、スノウ・マンを見つめていました。食べてはいけない、ときつく言われているのですが、そう言われれば食べたくなるのはなぜでしょう。
 涎をたらした雷牙の様子を見たムーアは、冷や汗をかいて一回り小さくなったスノウ・マンを自分の肩に乗せました。日除け用のマントを、スノウ・マンにもかぶせます。
「じゃ、行こうか」
 和らいだ日差しを見上げながら、ムーアは言いました。
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