獣−ビースト!−

【4】


 氷河の国は、森の王国から徒歩で夜を3つ越えた先にあります。
 森の端の大きな川をカバの背に乗せてもらって渡ると、その先にも続くと思われた森は途絶えていました。赤茶けた土で出来た広野を横切り、山を越え、3つ目の夜が終わる頃、ムーア達はようやく氷河の国の入り口にたどり着きました。
 見渡す限りジャングルだった森の王国と違い、氷河の国に木はありませんでした。
 飾るもののない大地がむきだしのまま続き、遠くに氷山の漂う海が見えます。大地は途中から氷原へと変わりますが、生き物の姿は見当たりませんでした。
 その景色を、寂しい、とムーアは思いました。
 色とりどりの森に比べて、なんと暗い色をした国でしょう。水の青さと、氷の白さ、空の暗さが暗澹たる気分にさせます。
 吹く風も、冷たい。氷室よりも、底冷えするような寒さを伴った風です。
 ムーアは慌てて荷物をひっくり返し、どうにかあつらえた長袖を着込みました。マントも、日除け用のものから防寒用の毛皮へと代えます。隣でぼうっとしている雷牙にも、無理矢理上着を着せました。
 土が冷たい。
 しばらく歩くうちに、ムーアは足の裏が痛くなってきたのに気づきました。ふと見れば、地面が凍っています。ムーアの履いている蔦を編んだサンダルでは、足先が冷えてしまうようです。
 靴のことまで気が回らなかったムーアは、仕方がないので適当に衣類をサンダルに巻きつけました。何度か足を踏みしめて、これなら大丈夫そうだと確認します。
「雷牙、お前、足は?」
 雷牙を見やると、雷牙は着せた上着すらどこかへ放ったようです。森を出た時の格好のまま、意気揚々と歩いていました。
「ん〜、ヘイキ!」
 気温の変化も、雷牙は気にならないようです。
「彼は変わっていますね」と、スノウ・マンが呟きました。
「まぁな」
 ムーアは頬を掻きました。吐く息が、白くなっていきます。
「うわ、息が白いぞ」
 雷牙も試すように息を吐きました。
「わぁ!」
 白くたゆたう息を食べようと、雷牙は大口を開きますが、息が瞬く間に空気にとけてしまうので食べることができません。雷牙は不満そうに口を尖らせました。

 やがて凍てついた大地が氷へと変わり、昼だというのに空が暗くなってきました。
 氷河の国の中に入った証です。
 夜のような暗さの空に、七色の虹にも似た光が帯のように漂っていました。絶えず揺れ動く光の帯は、幻想的な輝きをもっています。
「きれーい!」
 雷牙が目を輝かせました。
「女王様の衣です。綺麗でしょう?」
 この国の隅々に至るまで、女王の衣が伸びているのだとスノウ・マンは言いました。いつでも我等住民を見守っているのだと胸を張ります。
 スノウ・マンの話が頭に入らないほど、ムーアは凍えていました。
 寒さが痛いなんて、初めての経験です。
 これだけたくさん服を着ているのに、体の震えが止まらない。歯の根が噛みあわずにカチカチと音を立てます。もしかしたらここで死ぬかも、とすらムーアは考えました。
「ムーア、寒い?」
 雷牙が心配そうに覗き込みました。
「寒い。つか、お前の格好見てるだけで寒い」
 がたがたと震えながら、ムーアは遠慮なく言いました。着込んだ服ごと自分を抱きしめます。
「辛抱してください。もうすぐ、女王様の居城です。ほら、見えた!」
 氷の大地、オーロラの輝く夜空の下に、大きな氷の城が見えました。
 


 氷の城の中は外よりは随分暖かかったので、ムーアはほっと胸を撫で下ろしました。
 スノウ・マンが意気揚々と案内します。
「女王様!女王様!客人を連れてまいりました」
 この王城には、門番も近衛隊もいないようです。それどころか、侍女の姿すら見当たりません。城の中は青白く、ほのかな光で照らされていました。
「雷牙、喰うなよ」
 城の壁を興味深そうに見ている雷牙に、ムーアが釘を刺しました。氷で出来た壁も、床も、自分達の姿を良く映しています。
「何事じゃ、騒々しい」
 ティノスに似た声を聞いた瞬間、ムーアは雷牙の頭を掴みました。床に叩きつけるように伏せさせて、自分も膝をつきます。
 いつの間にか、女王の間に入っていたのです。
「女王様!」
 スノウ・マンがはねるように女王の元へ駆け寄りました。
「スノウ・マンか、よく戻って来たの」
 氷河の国の女王は、その名にふさわしく雪のような白い肌をしていました。黒い瞳に長い睫、青い唇、吹雪を束ねたような髪に、黒い衣はオーロラの輝きをまとって夜空に続いていました。
 ムーアは、女王がティノスと同じく人ではないのだと直感しました。
 とても綺麗な人なのに、どこか冷たい気がするのは、この国にムーアが慣れていないせいでしょうか。
「ほう、ほう」
 スノウ・マンから話を聞いた女王は、興味深そうに頷きました。
「”女王の息吹”が欲しいとな」
 顔を上げた女王と、ムーアの目が合いました。
 凄絶なまでの美しさを持つ女王の瞳は真っ黒で、光は、どこにもありませんでした。

「条件がある」

 凛とした声で女王が言いました。
「見ての通りこの国は常闇じゃ。わらわは月の光が好きでの。あれは暖かくて、心地良い。出来ることなら手元に置きたい。故に、わらわは月を所望する」
「お安い御用だ!」
 ムーアは自信たっぷりに答えました。
「オレは森の美形盗賊ムーア様だ。お望みどおり、空から月を盗んでやるぜ!」
 にやり、と女王の青い唇が微笑みます。
「言うておくが、水に月を映すなどと言うベタな手段は却下じゃ」
「うっ」
 ムーアは詰まりました。やる気だったのです。
「ムーアぁ」
 雷牙が不安げに呼びます。
 血の気が引いていくのを、ムーアは感じました。
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