獣−ビースト!−

【5】


 氷河の国に滞在する間、ここで過ごせばよいとの女王の計らいで、ムーア達は氷の城の客間に案内されました。
 客間に入ったムーアの顔がひきつったのは、客間も氷で作られていたせいです。暖炉には青い火が灯っていましたが、不思議なことにその炎は暖かくも冷たくもありませんでした。
 ベッドの土台は氷でしたが、一応、布団らしきものがあることにムーアはほっとしました。と、部屋の片隅に丸い穴が開いているのに気がつきます。
 1メートル近い円の穴がぽっかりと開いて、海に続いているのか波が見えました。
「なんだぁ?この穴」
 不審がったムーアが覗き込んだ瞬間、そこからアザラシが勢い良く顔を出しました。
「ぶあっ」
 冷たい海水をかぶったムーアがのけぞるのにも構わず、アザラシは手ヒレをついて、額に乗せた盆を床に落とします。盆は絶妙なバランスを保って、上に載った湯飲みを倒すことなく見事に着地しました。
「お茶です」
 どこか目が泳いだまま、アザラシが告げました。言うが早いか、再び海へと姿を消します。
「…茶…?」
 不吉そうな顔で、ムーアは湯呑みを覗き込みました。
 多分、元々はお茶が入っていたのでしょう。海にもぐった瞬間に、あざらしは自分が運び方を間違えたことに気づいたに違いありません。湯呑みには、詫びのつもりか、手のひらほどの大きさの魚が2匹入っていました。なみなみと注がれた海水は、端々が凍りついています。湯呑みに突っ込まれた魚は、ムーアを見てぱくぱくと口を開いていました。

『出された茶は飲め。それが世界の礼儀だ』

 ケルト王子の言葉がムーアの脳裏をよぎりました。
「マジかよ」
 ムーアが呻きます。ぴちぴちとはねる魚が、自分をせかしているようでした。
『世界の礼儀だ』
 いや、しかし。
 ムーアが心の中でケルト王子に反論しようとしたその横で、雷牙が嬉しそうに2匹の魚を飲み込みました。
「うまー」
 ぼりぼりと背骨をかじる音がします。ムーアは唖然として雷牙を見つめ、それから抱きつきました。
「オレは今ほどお前の存在に感謝したことないぜ!」
「ふえ?」
 雷牙は不思議そうにムーアを見ました。
「オレもちょっとくらいはもらっておくか」
 そう言って、ムーアは湯呑みに注がれた海水に指を滑らせて、それを舐めました。
 初めての海の味は、頭が痛くなるほど冷たく、塩っ辛いものでした。


「月、ないねぇ」
 女王の衣であるオーロラが輝く夜空を見ながら、雷牙が言いました。
 ムーアは空を見ようとはしませんでした。ただ、首から下げた皮ひもをたどって、妹の形見である月光石を見つめました。
 月の光を閉じ込めたものだと言われるその石は、暗闇の中で柔らかな白い光を放っていました。 この氷河の国で、ムーアは初めてその光があたたかいことに気がつきました。熱帯である森の王国にいたのでは、絶対に気づかなかったことでしょう。
 ムーアはしばらくその光を見つめました。
 ムーアの妹は、この石がとても好きでした。
『妹が大事だったか?』
『私は、皆が大事だ』
 出掛けに見た、ケルト王子の顔を思い出します。
 こうしている今も、王子は熱に浮かされているのです。

 あの馬鹿!

 自分と同じ子供だというのに、最後までケルト王子は弱音を吐きませんでした。そのことに、なぜかムーアはひどく腹をたてていました。
「ムーア?」
 雷牙に呼ばれて、ムーアは我に返りました。
 今、自分は無意識に妹とケルト王子を天秤にかけていたと気づきます。
 迷いを振り切るように、ムーアは立ち上がりました。
「よっし、明日には帰るぞ、雷牙!」
「え?」
「王様がくたばる前に帰らなきゃな」
 ムーアはそう言って笑いました。胸で、月光石のペンダントがやわらかく光りました。



 ケルト王子の熱が一向に下がらないことに、ファルコはいらだっていました。
 王子が倒れてから、もうすぐ一週間たちます。王不在を取り繕うのも限界が来ていました。
「くそ!」
 代われるものなら自分が代わりたい。歯がゆい思いを抱えて、ファルコは氷室を出ました。と、ティノスの体がわずかにあたたかい気がしました。
 ファルコは、ティノスを見上げました。
 透明に揺らぐ水の体で、細かな表情は読み取れませんが、ファルコは自分の直感を信じました。
「失礼。もしや、具合が悪いのでは?」
 王子の熱が、氷室を伝ってティノスに影響しているのではないかと思ったのです。
 ティノスは、揺らぎながら答えました。
「王子が弱音を吐かないのに、どうして私が言えましょう」
 皆限界だ、とファルコは思いました。
 ムーアと雷牙は何をやっているのか。
 物見遊山などに興じていようものなら、その身を八つ裂きにしてやろうとファルコが翼に力を込めた瞬間、ムーアの声が響きました。
「うは、急にこっちに来るとやっぱ暑いな!」
「トリー、ただいま!」
「貴様等!」
 ムーアは蔦で編んだサンダルに巻きつけていた布を引き剥がしながら、片足とびで神殿に入ってきました。雷牙がファルコに飛びつかんばかりの勢いで駆け込んできます。ファルコは軽く羽ばたいてそれを避けると、ムーアを鋭い瞳で睨みました。
「首尾は?」
「上々!」
 ムーアの微笑みは、自信に満ちていました。


 ケルト王子の意識は、灼熱の暑さを持つ闇の中にいました。夢すら見ることは叶わず、しかし闇に飲まれればそれは死ぬことだと本能が告げていました。体力が見る間に削られて、瞼を開くことすらおっくうです。このまま眠ってしまえば、どんなに楽でしょう。
「”女王の息吹”持ってきたぜ」
 聞き覚えのある声と共に、冷たい氷が口に触れました。
 氷室の空気ですら肺で燃えている。無駄なことだと王子は思いました。けれど、口に含んだ氷は溶ける代わりに、王子の体の中に氷河の国の風を巡らせました。体中を吹き荒れるその風のおかげで、高熱が嘘のように消えていきます。
 はっきりと、王子は目を開きました。
「おはよーさん」
 目の前でムーアが得意気に笑っていました。
「お前…」
「ケルト様、気づかれましたか!」
 ファルコが歓喜に打ち震えています。
 口を開きかけた王子の前に、どかりと食べ物が積まれました。
「食べよ!ケルト!」
 雷牙がにこにことプラムの実を差し出します。
 ケルト王子は、それを手に取りました。
「…甘い…」
 それを噛み、飲んだことで、ケルト王子はムーアへの礼も一緒に飲み込んでしまいました。
Copyright (c) 2005 mao hirose All rights reserved.