DTH

 目を覚ましたとき、オレは知らない部屋にいた。
 どこにでもある民家。窓から隣の家が見えて、ベッドはふかふか。オレは子供用のパジャマを着てる。当然オレのものじゃない。
 気のせいか髪がさらさらして気持ち悪い。
 肌もすべすべする。石鹸の匂いだ。
 それからほのかにシチューのようなうまそうな匂い。
 腹がなる。
 そういえばどさくさにまぎれて飯も食えなかったことを思い出す。
 ベッドから降りようとしたとき、不意に扉が開いた。
「やあ、気がついたかい」
 サングラスこそしていないが、それはまさしく黒髪のあの男!
 似合わない家庭的なエプロンに、手にはディッシュボードを持っている。
 シチューの香りが部屋一杯に広がった。

「おまえ…」
 ことばが出ない。というより何を言えばいいんだ。こいつはオレの目の前で人を殺した。それは間違いない。でもその後は、助けられたのか?それとも…
「なにはともあれご飯にしようか。お腹空いたろう?」
 黒髪がサイドテーブルに飯を広げる。
 オレンジジュースにやわらかそうなシチュー、バターの香りのきいたクロワッサンにみずみずしいサラダ。
 こくりと喉が鳴る。でも手はださない。警戒するオレの様子を見た黒髪が苦笑した。
「毒なんて入っていないよ」
 黒髪がひとつずつ、証明するように口に運ぶ。疑い深そうなオレの目を見て困ったように笑った。
「よし、じゃあこうしよう」
 かちゃりとサイドボードに鍵を置く。
「僕はこれから出かけてくるから、君は好きにしていいよ。出かけるときは鍵を閉めていってくれると嬉しい」
 そう言って、黒髪はドアノブに手をかけた。思い出したように、背中を向けたままオレに言う。
「それから、あれは…正当防衛だから。仕方なかった」
 言い終わると同時にドアを閉めた。
 オレはすぐさま窓にへばりつく。

 夕暮れの街に黒髪が出て行くのが見えた。

 そのまま、姿が見えなくなるまで見送る。
 5分、10分。
 帰ってくる気配は無い。

 ディッシュボードに手を伸ばしてクロワッサンにかぶりつく。
 喉に詰まりかけたが、オレンジジュースと冷めたシチューで流し込んだ。くすぐったいパジャマをさっさと脱ぎ捨てて、干してあった自分の服を身につける。こういう場合、とっとと退散するに限る。
 と、サイドボードの鍵が目に入った。
「出かけるときは鍵を閉めていってくれると嬉しい」
 そう言ってたっけ。
 馬鹿じゃないのか。
 見ず知らずの人間に鍵を託すなんて。
 オレは鍵を手に取った。ひやりとして、冷たい。
「…馬鹿じゃねーのか」
 言いながらポケットに突っ込む。

 鍵くらいかけてやるよ。オレはそこまで薄情じゃない。
 白くて赤い屋根の家なんてまるでどこかのホームドラマのようだ。
 つくづく自分には似合わないと思いながら玄関を閉めて鍵を取り出す。
 鍵穴に鍵を入れた。

 がじょり。

 ずいぶんとまあ、噛みあいの悪い鍵で…ってあってねーよ。
 鍵が違う!
 一瞬なぜだかオレは迷った。
 今思い返せば迷うことなんてなかったはずなのに、迷った。
 このまま放って帰るか、否か。
 びゅう、と春風が吹いた。さらさらした髪が気持ち悪い。
 風邪を引きそうだ。
『出かけるときは鍵を閉めていってくれると嬉しい』
 黒髪の言葉が頭をよぎる。
 嬉しい、なんて言われたのは初めてかもしれない。
 鍵が、重い。
 まるで自分の匂いじゃないこの石鹸の匂いも気に食わない。

 結局。
 どうせなら部屋の中で待とうと思って玄関に入った。
 黒髪が帰ってくる気配はなくて、春の夜は随分冷えた。
 だったらどうせなら部屋で、あのふかふかなベッドで待っていてもいいんじゃないかと思ったのが運のつきだった。

 ぼろぼろに汚れた服で入るのに気が引けて、もう一度あのくすぐったいパジャマに袖を通す。ふかふかのベッドに潜り込んで、幸せを満喫する。
 知らずに、寝てしまった。責めるな。オレは疲れていたんだ。

 けどなぜだろう、オレは知ってる。
 夜中に黒髪が恐る恐る帰ってきて、まだ俺がいると知ってとても安心していたこと。
 嬉しそうに微笑んで、オレの頭を撫でていたのを知っている。
 大きな手があたたかかった。

 明日こそあったかなシチューが待っている。そんな気がした。
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