DTH
第3話 「英雄の決断」
オレは英雄の探偵事務所の前に立っていた。
家から2ブロック先、オフィス街のビルの3階のちんまりとした部屋に看板がかかっている。
<霧生英雄探偵事務所 開店休業中>
やる気のなさがにじみ出るような看板だ。
ぽかんと見上げたオレを見て英雄が咳払いをした。
「表向きの仕事場だから、ここ。実際にはなにもしてないし」
「なにもしてない?」
「情報をリークした報酬で全然食べていけるよ。それなりのリスクがあるけどね」
英雄はドアを開けた。からんといい音色のベルが鳴る。
中は普通の事務所のようだった。入ってすぐに格子の衝立、来客用らしい皮のソファに小さなテーブル、その奥に丈夫な樫の机。右手に本棚、左手にはよくわからない赤と黄色の絵が飾ってある。
ダミーの観葉植物にはうっすら埃がつもっていた。
活気どころか人の気配のまるでない部屋だ。使っていないのがよくわかる。
英雄は、なにも言えずにぽかんとするオレをちらちら見た。オレの反応を気にしているようだ。
オレはついこの間、英雄の事情を知ったばかりだ。謎の組織(正直現実感がないけど)とFBIかけもちしているダブルスパイだ。本当のところ、どちらにつくのかすら本人は決めあぐねているようで、それではまずいだろうとオレがつっこんでも生返事のままだった。この優柔不断さがこいつを今日まで生かしてきたのかもしれない。
でもそれに巻き込まれるのはごめんだ。この間もよくわからないうちに誘拐されていたわけだし。次も生きて帰れる保障なんかどこにもない。
気まずい沈黙が流れたとき、こちらに近づく足音が聞こえた。
はっとして振り返るとでっぷりとしたおばさんが入り口に立っていた。高そうな服が膨張の限界に悲鳴をあげてそうだ。きつめの細い瞳にザーマス的な眼鏡。くるくるとしつこいくらいにカールした髪につぶれたローヒール。むわっと香水臭さが広がってオレも英雄も思わず鼻をつまんだ。
「あの…」
「やっといたわね!あんた!私がどれだけ無駄足を踏んだと思っているの?これで5日目よ、5日目。宅のジュリエッタちゃんになにかあったらどうしてくれるの!?」
口を挟む間もなくおばさんがまくしたてる。どうやらこの人依頼に来たらしいとオレは察した。
英雄はどこからか営業用のスマイルを調達してきたらしい。優雅な物腰でおばさんに近寄った。
「申し訳ありません、婦人。ただいま当事務所は休業ちゅ…」
オレは英雄のすねを思いっきり蹴った。
英雄が小さくうめいて屈みこむ。涙目になりながら「なにするんだ」と小声でオレに抗議した。
「バカかお前。断る気かよ、働け!」
「嫌だよ。なんで僕が…」
「仕事だろ。やれよ」
オレ達のひそひそ話を意に介することなくおばさんは鼻息をフンと鳴らした。嫌な風が顔にあたる。
オレと英雄が上を見上げるとおばさんはオレ達を見下ろしながら言い始めた。
「宅のジュリエッタちゃんはそりゃあもう可愛い子で、生まれたときからオーラが他の子とは違ったのよ。お目目もぱっちりしていて可愛らしいったらないわ。でもそのジュリエッタちゃんがいなくなったの。可愛いから狙われたのね、可哀相に!まだたったの4歳よ!誘拐に違いないわ。
さっさと探して!」
話し声というより音のなる風に当たった気分だった。べらべらとまくしたてられた数秒後に言葉がやっと意味を成す。
英雄は、どうやらこの手の人間に免疫がないようだ。オレ以上にぽかんとしておばさんを見つめている。
「誘拐…?警察には?」
オレが聞くとおばさんはフンと鼻を鳴らした。
「もちろん行ったわ!でもあのバカども、ジュリエッタちゃんのことがなにひとつわからないのよ!家出ですって?バカにして!抗議をしたら書類を書いておしまい!そんなので見つかると思う?」
それは見つからないだろう。
「いや、しかしですね」
正気を取り戻したらしい英雄が再び止めに入った。こいつそんなに仕事が嫌か。それならオレにも考えがある。オレは英雄の服の裾を引いた。
英雄が面倒くさそうにオレを見る。よし。
「ねえ、この人かわいそうだよ…。ジュリエッタちゃんも今頃泣いてるよ」
たっぷり間を空けて、瞳に涙を溜めてとびっきりの優しい声で言ってやった。
英雄が目を見開いて固まる。おばさんは感激してなんていい子なの!と叫んでいた。
英雄はとてもなにか言いたそうにわなわなとしていたが、あきらめたらしい。溜息をつくとこめかみを押さえながら婦人をソファに案内した。
「わかりました、婦人。お話を伺いましょう。まずはそちらへ。そしてお嬢様の特徴をお教えください」
おばさんはずかずかと歩くとソファにどかりと座った。心なしかソファがM字型にきしんだ気がする。
英雄が対面に座った。
オレは紅茶でも入れようとポットを探す。あった。いつから入っているお湯だか怪しいもんだけど、まあ、あのおばさんなら大丈夫だろう。
オレは紅茶を淹れておばさんに出した。おばさんはフンと鼻をならすと紅茶をすすった。ようやく人心地ついたというふうにくつろぐと、ちろりと英雄を見て口を開いた。
「なにか誤解があるようだけど、ジュリエッタちゃんは猫よ」
英雄とオレの時間が止まった。
おばさんが帰った後、英雄は途方にくれたといった表情でソファに座ったままだった。
オレはおばさん臭さを追い出すために換気にいそしんだ。新しい空気が入ってきても、粘膜にはりついた香水の匂いがまだする気がする。香水なんて大嫌いだと思った。
大袈裟に溜息をついて、英雄が資料に目を落した。愛猫ジュリエッタちゃんの詳細が書かれているようだ。
「猫だよ、クレバス。猫。一体このNYに何匹の猫がいると思っているんだ!それを僕に探せと!?」
猫なのは悪かったと思ってる。けどオレも引き下がれなかった。
「猫だからなんだってんだ?お前たまにはまっとうな仕事しろよ!こうでもしなきゃ動かなかったろうが!」
「そりゃそうだけど…」
英雄が言いよどんだ。オレは勝利を確信する。
「手伝うからさ、やろうぜ」
オレは英雄の後ろからジュリエッタの資料を覗き込んだ。ときどきある読めない字は英雄が教えてくれた。
ジュリエッタはアメリカンショートヘアの猫だ。おばさんは4歳だと言っていたが、どうやら家に来てからの人間時間で4年の意味らしい。猫と人間では年の数え方が違うのだと英雄が言っていた。人間に比べてだいぶ早く年を取るらしい。どおりで猫にはえらそうなヤツが多いと思った。
おばさん曰く、この上なく可愛いジュリエッタちゃんの体重は10キロ。でかいというかデブいというか、オレの中の猫の常識をくつがえしそうな物体だ。これが猫かと思いながらジュリエッタの写真を見つめた。
「これならあんまり遠くに行かないんじゃねーか?」
英雄がううんと唸った。
「猫には隠れる習性があるんだよクレバス。家の床下とか、屋根裏とか。人に近いところにはいるけれど見つけるのは簡単じゃないぞ」
英雄はある民家の密閉された床下にもぐったら、猫がいて死ぬほど驚いたという話をした。
誰もいまいと思ったところに二つの光る目があったもんだから、てっきりトラップかと思って寿命が縮んだとよくわからない感想も漏らしていた。
「でもこのデブ猫なら通るとこも限られてるんじゃん?」
ポテトチップをかじりながら何気なく言った。
「…そうだね。あの人も猫の鳴き声はたまに聞こえるといっていたからそんなに遠くにはいないだろう。他の猫鳴き声と混同してなきゃいいんだけど」
英雄が立ちあがった。
「あの人の家のそばまで行って見ようか、クレバス」
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