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第6話 「スローステップ」

 朝起きると英雄はいなくて、置き手紙があった。

「クレバスへ
 おはよう。よく眠れたかな?
 僕はちょっと出かけてくるよ。食事は適当にとっておいてくれ。
 夕方には戻るから、君が学校から戻るくらいの時間かな?
 そうしたらハンズスのお見舞いに行こう。
 くれぐれも気をつけて。
                            英雄」

 この手紙には重大な欠点がある。
 つまり、今オレの目の前で朝食を食べている人間に関する文章がひとつもないのだ。
 ソイツはちょっとした美形だ。いや、かなりかっこいい。モデルでもやってそうだ。
 腰まである銀髪のロングをきっちり束ねている。良く通った鼻筋に、左側の前髪を多くたらしているせいで瞳が見えない。残った右目のグリーンアイが澄んだ緑で綺麗だった。座ってるけど、多分英雄よりずっと背が高い。
 無地だけど仕立てのいいシャツが、服にも気を使う人間だとさり気なくアピールしている。
 パンを口に運ぶ仕草にすら気品というやつが感じられた。
「あの…」
「ん。手紙は読み終わったかい?食事の準備なら出来てるよ。どうぞ」
 うながされて、オレはそいつの前に腰掛けた。
 誰だ?こいつは。
 多分、オレが怪訝そうに見つめたせいだろう。
 ソイツはにっこり笑うとこう言った。
「大丈夫。私は英雄の先輩だよ。英雄が留守だから、君が気になってね。セレンという」
 すっと差し出された大きな白い手を反射的に掴んでしまった。握手の出来上がり。
 指がすごく長い。肌もすべすべだ。
「小さな手だね」
 セレンが穏やかに言った。
「これでも大きくなったよ」
 セレンが用意したらしい食事を食べる。
 スクランブルエッグにスプーンを突っ込んで、口に運びながらオレは考えた。
 先輩って…どっちの?
 組織?それとも刑事時代の?学生時代とは考えにくいような。
 聞けない、よな。前者だったら即アウトだ。
 自然皿と話しながら食事をしてるみたいになった。顔が上げられない。
「英雄はね、決めたみたいだよ」
 セレンの声に顔を上げた。我ながら現金だ。
「あの子は、決めたみたいだ」
 少し嬉しそうに、でも残念そうに言った。
「断ったんだ。組織の新たな指令を。もう飼い犬はたくさんだと、そう言った」
 食べていたスプーンを口にくわえたまま止めた。
「組織はあの子の抹殺指令を出したよ。知ってた?」
 ぶんぶんと首を横にふった。
 ああ、それで。英雄はあんなに神経過敏になって、ダルジュがオレの前に現れた。
「私は、あの子に決めるなと教えていたんだ。生き延びたいのなら、なにも決めずに受け入れろと。なのにあの子は決めた。決めさせたのは、君だ」
 セレンがじっとオレを見た。
 緊張するオレを見て表情を緩める。
「いい子だ。あの子は昔から選択ミスをしなかった」
 背筋をつ、と嫌な汗が流れた。
 セレンは、もしかして。
「早く食べたほうがいい。スクール・バスの来る時間だろ?」
 言われて時計を見た。やばい、時間が無い。
 セレンの前で朝食をかきこんで、ばたばたと支度をした。
 セレンはそれをくすくす笑いながら、面白そうに見ている。
「いってらっしゃい」
 玄関まで見送りに来たセレンが軽く手をふった。
 バスに向かいながら、セレンを振り返る。
「左側も髪上げたらいいのに。もっとかっこ良くなるよ」
 オレが声をかけると、セレンが優雅に微笑んだ。
「ああ、これは無理だよ。ほら―――――」
 左に重くかぶった銀髪をかきあげる。
 綺麗な顔に、瞳をつぶし、顔に縦に深く入った傷があった。
「少しからかったら、英雄に噛み付かれてしまってね。遊びすぎた」
 オレの表情が凍りつく前にセレンはさっと前髪を戻した。
「別にこれは気にしちゃいないよ」
 そういって手を振った。
「でも、ダルジュに手を上げたのは許せない、かな」

 バスに乗ってすぐに携帯を取り出した。
 セレンが家の中に入るのが見える。
 英雄に知らせなきゃ。
 何度コールしてもでやしない。留守電にもならなかった。
 どうしろってんだよ!
 もう少しで携帯を床に投げつけるところだった。
 目の前に、自分のパーカーから吊り下がったボタンが見える。
 予備だけはたんまりあるこのパーカー。そうか。これを押せば。
 右だったか、左だったか覚えてない。
 でも、英雄が家に帰るまでに気づけばいい。
 家にはセレンがいる―――――!
 オレはやけっぱちな気持ちで両方押した。

 英雄は、来なかった。
 授業が始まっても、学校が終わっても。
 なにがあったんだろう。
 オレは一日落ち着かなかった。
 家に帰りたかった。英雄は、まさかもう、セレンに。
「学校は安全だから、僕が許可する以外は抜け出ちゃ駄目だ」と英雄に釘を刺されていなかったら、とっくに飛び出していた。
 終了のベルを聞いてかばんをひっつかむ。挨拶もそこそこに駆け出した。

 家に戻る前に、ハンズスの病院に立ち寄った。
「丁度今眠ったところなのよ」
 ほっとした表情でマージが言った。
「英雄は来た?」
「今日はまだよ。どうかして?」
 マージに聞かれてオレは詰まった。
「いや、夕方一緒にお見舞いに来るはずだったんだけど、すれ違ったみたいだ。また出直すね!」
 頭を掻いてじりじり後退しながらドアから出て行くオレを、マージは不思議そうに見送った。

 病院にはいなかった。
 事務所は、と思って寄ったけど開いてなかった。
 いる気配も無い。
 となると、家。
 でがけのセレンを思い出すと帰りたくなかったけど、でも。
 英雄になにかあったかも知れない。
 それがなにより怖くて、オレは家に向かって走り出した。
 
「やあ、お帰り」
 オレを出迎えたのはセレンだった。
 居間で我が物顔で本を読んでる。
「…英雄は?」
 息を切らして聞くと、セレンは小首をかしげた。
「まだだが」
 オレは、どんな表情をしたんだろう。
 セレンが読みかけの本を閉じて、オレの前に膝をついた。
「どうした」
「…連絡が、ないんだ」
「夕方に帰ると、置手紙にはあったはずだが」
「これ…」
 震える手でパーカーのボタンを示した。一瞬迷う。言っていいんだろうか。
 でもハンズスは今病院で、英雄がいないなら、オレには相談する相手がいない…!
「緊急時のコールになってる。鳴ったらすぐに英雄がくるはずなんだ。来ないなんて、なにか…」
「見せてごらん」
 セレンがボタンに触れた。コードの流れを確かめるように、ひもを辿る。
「脱いで」
 言われるままにパーカーを脱いで渡した。「切っていい?」と聞かれて頷く。セレンがナイフですべるようにパーカーを切った。配線を一目見て、オレに投げ返す。
「別に壊れちゃいないよ」
 オレは立ち尽くした。どうしていいのかがわからない。
 どこに行くとも書いてなかった。
 手がかりなんてなにひとつない。心当たりだって無い。
「とりあえず座りなさい」
 セレンがオレをソファに連れて行った。目の前にオレンジジュースが運ばれてくる。
 ぼうっとした頭でそれを飲んだ。
「昼間、ずっとここに居させてもらったよ。ここは、すっかり”家”だね」
 セレンが言った。
 確かに、ここは変わったと思う。初めて来たときの殺伐さがなくなった。
 必要以外のものがなかったあの頃にくらべて、随分ごちゃごちゃとしている。良くも悪くも生活臭がするのだ。
「暗殺者は暗闇の生き物。足跡を残してはならない。生き方を悟られてはならない。…それが信条だったのにな。変わるものだ」
 懐かしむようにセレンが言った。
 そしてオレを見る。
「英雄が心配?」
 オレはすぐに頷いた。
 セレンは少し考える素振りをした。
「無償は、いただけないな。金にも興味は無い。私を雇うなら、君の生き方の一部をもらうよ」
 そう言って、セレンは微笑んだ。
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