しゃくりを上げるマージを居間に連れて行って、あたたかい紅茶を入れる。
それで少しは落ち着いたみたいだった。
「ハンズスが、教えてくれたの」
涙を拭きながらマージが言う。本当に無事で良かったと言葉を紡ぐたびに、涙がこぼれた。
「あいつめ、余計なことを」
英雄が毒づいた。また新しい涙を見せたマージにおろおろとして「いや、悪かった」と謝る。
マージが涙を拭いて、言った。
「ハンズスから全部聞いたわ。…父さんのことも。英雄、私」
マージの声はあくまで穏やかだった。責めているような気配は微塵も無い。
それでも英雄はオレに部屋から出るように言った。
「大人の話だから」
「英雄」
たしなめるように英雄を呼んだのはマージだ。
「クレバス君にもいてもらって。別に怒りたいわけじゃないわ」
そう言って、オレに気遣うように微笑んでみせる。
硬い表情を崩さない英雄と対照的だった。
英雄はなにか言いたそうだったけど、言葉を飲み込んだようだ。一度オレに視線をやってから、マージを見る。
「…聞いた、か」
確かめるように英雄が言った。
テーブルを睨むようにして、続ける。
「そうか」
そう言って、英雄はきつく目を閉じた。
どんな言葉が降ってきても崩れないよう、覚悟を決めているように見えた。
マージは怒るわけじゃないと言った。でもそんなことってあるんだろうか?
父親を殺した人間に吐く言葉なんて、呪詛しかない気がする。
それを受ける英雄も、それを吐くマージも、見たくない。
静寂につつまれた部屋で、ぎこちなくマージを見る。頭を垂れた英雄を見つめていたマージは、オレの視線に気づくとにっこりと微笑んだ。
マージは微笑んだまま、英雄の手を取った。
優しく、包むように。
「ありがとう」
穏やかな声は英雄にも届いたはずだ。
言われた言葉が信じられないというように、英雄は顔を上げた。
「守ってくれて」
大切なものを扱うように、マージが英雄の手を持ち上げた。静かに頬を寄せる。
英雄は言葉もないまま、マージを見つめた。
その瞳に涙が滲んだ気がした。
光がさす。
救いが、この世にあるのなら、きっとこんな形だ。
「英雄」
優しく呼ぶマージの言葉に、英雄の顔色が変わる。
まるで恐ろしいものを見るような目をしていた。
「…うん」
曖昧な返事をした英雄は、ぎこちなく手を引いて、テーブルの下でズボンにこすりつけた。
なにかを拭うみたいに。
それはマージの感触ではなくて、もっと別の。そう、例えば血とか命とか、べっとりとまとわりついてしまった重たいなにか。マージに触れさせたくないものだった。
こすっても落ちるわけ無い。
とっくに知っているはずの英雄は、それでもこすり続けた。
手がひどく重そうだ。
「ずっと、謝らないといけないと思ってて」
英雄が無理矢理言葉を紡ぐ。
「なにを?」
マージが聞いた。
「…父さんのこと。それから、いろいろ黙ってて、傷つけた。…ごめん」
「うん」
沈黙が居間を支配する。
空気が重くて、息もしにくい気がした。
英雄が紅茶に手を伸ばす。飲むわけでもなく、スプーンで中をかきまぜた。
カチャカチャと、スプーンをカップの触れ合う音がする。
「ハンズスがね」
マージが言った。
様子を伺うように英雄を見る。
「ハンズスが、プロポーズをしてくれたの」
「えっ!?」
オレは思わず声を上げた。マージが恥ずかしそうに肩をすくめた。
英雄が無意味にかき回していたスプーンを止める。
「こんな時に言うのは卑怯かもしれない。でも、今の君には支えが必要だって…」
多分、マージは「どうしよう」と続けたかったはずだ。
「良かったじゃないか」
英雄は最後までマージに言わせなかった。
「ハンズスなら、何も言うことはない。おめでとう、マージ」
笑っているのは多分自分に向けた皮肉だ。それでも瞳は穏やかで、マージにはきっと祝福しているように見えたろう。
一瞬瞳を見開いたマージは、静かに視線を落とした。
「そう…」
呟いて、寂しげな笑みを浮かべる。
英雄もマージも視線を合わせようとはしなかった。お互い黙ってただテーブルを見ていた。
沈黙が雄弁になにかを語る。
マージが微笑を崩さないまま、言葉を紡いだ。
「式には来て。兄さん」
「…ああ」
英雄が頷いた。
会話は、それで終わったらしかった。
マージが帰っても、英雄はその場から動こうとしなかった。
頬杖をついて、ぼーっとしている。
目の前をぱたぱたと動いてカップを片付けていると、ふいに英雄が声をかけた。
「クレバス」
「ん?」
呼んだだけらしい。その後が続かなかった。
「なんだよ」
英雄はオレを呼んだときの口の形のまま、動かない。
「飲みに行こうか」
ぽつりとつぶやいた言葉にはまるで生気がなくて、抜け殻のようだった。
夜の”Green&Green”は、深海を思わせる装いにその姿を変えていた。
暗闇の中にブルーの照明。照らされたシルエットが他に客がいるのだと告げる。優雅なピアノの旋律が控えめに流れていた。音がいつもと違う。CDらしい。
英雄と現れたオレを見て、セレンがカウンターの中で肩をすくめた。相変わらずバーテンダーの格好が似合ってる。本気で転職したほうがいいんじゃないのか?
「救出には成功したようだね」
そういえばオレ、なにも言わずに飛び出したままだった。
心配、してくれたんだろうか。
「まかせる。強いヤツがいい」
英雄がカウンター席に腰掛けた。
「なんだ失恋でもしたのか」
セレンの言葉に英雄が赤くなった。
ぐ、と言葉に詰まる。
「そういう、わけじゃ」
「図星とは失礼」
英雄が頭を抱えた。「なんでこの店に来たんだろ」と呟く。
「小さな英雄に」
そう言ってセレンがオレにジュースを差し出した。
黄色の液体にハイビスカスの赤い花があしらってある。黒いテーブルにカラーリングが映えてすごく綺麗だ。
怪訝な顔をした英雄が、手を伸ばして一口飲んだ。前に酒を入れられたことを根に持っているらしい。
「大丈夫。マンゴージュースだ」
「執念深いことだな。嘆かわしい」
セレンが呆れたように言った。
英雄に手渡されたジュースを飲む。甘酸っぱくて、美味しい。
「おいしい」
「だろう?」
セレンが微笑む。
言いながら手にしたシェイカーで作ったカクテルを英雄に差し出した。
「お前の失恋に」
「だから違うって」
憮然とした顔で英雄が受け取る。
深いグリーンのカクテルだ。底にちらっと見える赤いのはチェリーだろうか。
手にしたグラスを睨んで、一気に飲み干した。
とたんに英雄がむせる。
口元を手で押さえて、見る間に涙目になった。
「セレン、これ、なに入れ…」
「お前のように無粋なヤツにはこれで十分だろう?」
悪戯っ気な顔でセレンが赤い干しトウガラシを振って見せた。
「恋とは苦いものさ」
いい勉強になったろうと言って英雄に水を差し出す。
「二度としない」
英雄が心底苦そうな顔で水を飲んだ。
「そういえば、ダルジュは?」
店内をぐるっと見回しても姿が見えない。
「さてね」
セレンが意味深に笑う。
主不在のグランドピアノが、少し寂しげに見えた。
第27話 END