DTH

第28話 「ゆるやかな疑惑」

 一歩階段を上がる度に鉄筋が軋む。階段全体が揺れて、からからとどこからともなくする謎の音が、いつ崩れてもおかしくない気分にさせる。台風でも来たらどこかへ飛んでいきそうだ。
 裏通りにあるアレクのアパートは、相変わらずの老朽っぷりだった。
 英雄を連れ戻してくれたお礼を言おうと、早起きしてパンケーキを焼いてきたんだ。
 アレクがいればいいんだけど。
 アレクの部屋の前に立つ。
 扉をノックしようとして、わずかに開いているのに気づいた。
 アレクがいるのが見えた。
「アレ…」
 声をかけようとして、雰囲気の違いに息を呑む。
 どこか殺伐とした雰囲気をまとったアレクは、苛立たしげに煙草をくわえていた。いつもは穏やかな眉間に皺がよる。黙ってふかされる煙の量が、機嫌の悪さを物語っていた。出直したほうがいいかもしれない。
 ドアの前で硬直するオレを促すように風が吹く。蝶番が軋んだ音にアレクが顔をあげた。
「クレバス」
 オレを見るなり目を丸くしてドアに駆け寄る。
「ノックしようとしたんだけど」
「よく来てくれマシタ」
 にこりと笑うアレクは、もういつものアレクだ。
「煙草、吸うんだ」
「ああ、コレハ」
 言われてアレクが煙草に目をやった。
 慌てて揉み消すと、窓を開けてぱたぱたと換気を始める。
「たまに、どうしようもナイトキに」
 そう言って恥ずかしそうにはにかんだ。
「いやなことでもあったの?」
 意外そうな顔でアレクがオレを見た。まずいこと聞いたかも。
「追えナカッタこと、許してクダサイ」
 そう言ってオレの頭を撫でた。
 追えなかったって…船の?
 あれは、仕方ないだろう?
 多分アレクはオレを追おうとしたはずだ。来なかったのは、縛り上げた人間を放っておけなかったからだと思う。
 オレはアレクのそういうところが好きなんだ。
「なんのことを言ってるのかわからないよ。アレクは英雄を連れてきてくれたじゃないか」
 持ってきたバスケットを差し出す。
「ありがとうって気持ち。パンケーキ焼いてきたんだ。一緒に食べよう?」
 オレが言うと、アレクはたまらなく嬉しそうな顔をした。
 ぜひにと頷いてオレを通すと、慌てて皿を取り出した。やかんに水を入れて火にかける。
「一緒にゴハン、嬉しいデス」
 鼻歌が聞こえそうなほどアレクは上機嫌だった。
 そっか。こっちだと一人暮らしだから寂しいかもしれない。
 これから頻繁に誘おうかなと思ったとき、ふいにアレクが怪訝な顔をした。
「…クレバス、英雄は?」
「ああ。あいつはいいよ」
「ケンカでもしたデスカ?」
 心配そうに言う。
「いや。単なる二日酔」
 ゴハンなんか食べられやしないよと出かけに英雄が言っていたのを思い出す。まあ、ベッドサイドに水と薬は置いてきたから自力でなんとかするだろう。セレンの馬鹿とかぼやいてたけど、自業自得だと思う。
 帰りになんか果物でも買っていくかな、と思うオレは甘いのかもしれない。


 そんなわけで当分”Green&Green”に英雄が立ち寄ることはなかった。
 近づくだけでも思い出すのか苦い顔をする。
「毎度通り過ぎるたびに苦い顔するのやめろよ。自業自得だろ?」
 スーパーの帰りにオレがたしなめると、英雄の眉間に皺が寄った。がさりと音を立てて、抱えていた買い物袋を持ち直す。
「そうだけどさ。なんだかこみ上げるものがあるんだよ」
「こんなとこで吐くなよ」
「こういう時は”大丈夫?”くらい言うのがマナーだとは思わないか?」
 はあ、と英雄が大袈裟にため息をつく。
 昼の”Green&Green”は花屋だ。通りにあふれんばかりの花が、あたりに柔らかな花の香りを振りまいてる。英雄に言わせるとそれすら酒の匂いがするらしい。重症だ。
 ため息をついた直後に、目の前の花屋に犬が駆け込んで行った。大きなシベリアンハスキー。巨体が駆け込んだ店内から、鉢の砕ける派手な音が通りまで響く。
「ふざけんじゃねぇぞ!このクソ犬が!!」
 確認する間でもなくダルジュの叫び声がした。
 英雄もオレも足を止めたまま、それを見ていた。なにもできなかったというほうが正しいか?
 やがてずいぶんと遅れて、ぱたぱたと弱気な足音がした。長い髪をなびかせたカトレシアが息を切らして走ってくる。随分遅いけど、本人的には走っているはずだ。
「ああ、もうジャックったら。足が速すぎですわ」
 おっとりと嘆きながら店内に入っていった。
 たっぷり後姿を見送ってから、英雄と顔を合わせる。
 店内をのぞきこむと、ジャックのタックルをくらったらしいダルジュが後頭部を押さえながら犬の下敷きになっていた。衝撃で崩れたらしい棚から鉢が落ちて、破片が当たりに飛び散っている。辺りの花もばらばらだ。ジャックはジャックで嬉しそうにダルジュの頬を舐めながら、千切れんばかりに尻尾を振っていた。
「ああ、すみません。お怪我はありませんか?」
 おろおろとカトレシアが聞いた。
「お怪我だあ〜?」
 起き上がったダルジュのこめかみがひくりと動く。
「店の中がめちゃくちゃだ!どうしてくれる!」
 ダルジュの言葉にカトレシアは改めて店内を見回した。
 ダルジュの周りに飛び散った鉢を見て顔色を変える。
「ああっ!すみません!すみません!」
 言いながら鉢の破片に手を伸ばす。
 かちゃかちゃと不器用に、カトレシアは破片を集めて行った。
 ダルジュが無言でそれを見る。
「おい…」
「痛っ」
 カトレシアが小さな悲鳴を上げた。鉢の破片で手を切ったらしい。
「馬鹿、手ぇ出すな」
 ダルジュが忌々しそうに舌打ちした。カトレシアの手から破片をもぎ取る。
「すみません…」
 恥じ入るようにカトレシアが目を伏せた。
「そこの水道で洗っとけ」
 カトレシアに背を向けたままダルジュは言った。黙々と片づけを始める。
 オレに気づいたジャックが、おんと声を上げた。
 ジャックの声にダルジュが振り向く。
「まあ、クレバスさん」
 カトレシアが嬉しそうに微笑んだ。
 英雄を認めたダルジュが、この上ないくらい嫌な顔をした。
 ダルジュの視線をたどって英雄の顔を見上げる。
「ふ〜ん」
 なにもかも了承したように笑う英雄の顔は、ダルジュにとって悪魔に近かったに違いない。笑顔の成分を述べるとしたら、好奇心80、からかい20かなとオレは分析した。
Copyright 2005 mao hirose All rights reserved.