真夜中の廃ビルは、取り壊しの途中で忘れられたように瓦礫の山へとその形を変えていた。
英雄と初めて会った場所。
この移り変わりの激しい街でそれでもこうして残っているなんて、奇跡に近いと思う。
立ち入り禁止のテープが張り巡らされた光景は、英雄の心のような気がした。
テープをくぐって中に入る。
瓦礫のかけらを踏みながら、その頂上を目指して歩き出した。
あれから、英雄がどこに行ったのかを議論しだした皆に気づかれないよう、そっと抜け出してきた。アレクだけはそれに気づいて、心配そうな瞳で見送ってくれた。
ここに英雄がいるなんて思わない。
でも、オレは来たかった。
一歩踏み出すたびにコンクリートが味気ない音を立てて、英雄の思い出が胸を巡る。
確か初めは、そう、この場所で。英雄が人を殺すのを見て。よくわからないうちに黒服のやつらに追われて、英雄に助けられて、英雄の家に行った。言い訳をする英雄を信用できなくてさっさと逃げようと思った。鍵が、あわなかったんだっけ。それで家にいることになった。
今思えば、あれも英雄の仕掛けだったのかな。
初め夕食はもっぱらデリバリーだった。なにを話していいのかもわからなくて、恐ろしく殺風景だった英雄の家。
それからマージやハンズスに出逢って、英雄の事情を知って、オレはマージに料理を習い始めて、自分で作った料理を出すようになった。
あれから少し何かが変わった。会話が多くなった気がする。
価値観の違いで少しくらいの喧嘩もした。英雄は大人気なくむきになることもあったけど、オレがこどもなのを理由にごまかすことはなかった。うろたえながらも、困りながらも、オレに伝わるよう言葉を選んだ。オレは、それが少し嬉しかった。
瓦礫の山を進む。
風が吹くたびに粉塵が舞った。
必要な家庭用品や欲しい物が増えて、じゃあ買えばいいと、家の中に雑多なものが多くなった。
家の中の空気が動く。そこに生活感があふれ出した。
一緒に買い物もしたし、絵本も読んだ。たくさん一緒に笑って、笑った。
マジで心配もしたし、怒りもした。
でも最後はいつも笑っていた気がする。
幸せ、だった。
英雄は、どうだったろう。
『もう薬でもごまかせなかったんだろ』
セレンはそう言った。
英雄と過ごした時間はとても楽しかったし、オレにとっては宝物だ。
でもそれが英雄に苦痛としてしか残らないのなら、オレはもうどうしていいのかわからない。
痛みを堪えて笑っていたなんて、思いたくなかった。
ぱらぱらと乾いた音をたてて、足元の小さな破片が転がっていく。
コンクリートの匂いを含んだ風を受けて顔を上げると、まるで瓦礫と共に朽ちそうな気配で、力なくそこに座る人間がいた。裸足のまま、病院服にコートを羽織っただけの格好で、風が吹くたびにそれがばさばさとなびく。
英雄が、そこにいた。
「英雄…」
呟いた声に英雄がぴくりと反応した。
英雄は小さな子供のように膝を抱いたまま、オレを見ようとはしない。
「…聞いた?」
消え入りそうな声で英雄が呟いた。
「うん」
オレの答えを聞いた英雄は表情を変えないまま、しばらく何も言わなかった。
「…生きたかったんだ…」
ろくでもない人生だったはずなのにね、と英雄は呟いた。
「…残りの時間を知って…生きたいと思う自分にびっくりした。どうして、もういいじゃないかと、そう思う自分もいた。揺れたまま、君に会った」
風がヒュウと鳴いた。
「君がこのビルに出入りしてるのはわかってた。初めて会った時に殺した男が、情報提供者だ。君の捕獲を条件に取引を申し入れてきた」
思い出すように、英雄は言った。
「君を守ろうとかそんなんじゃなく、ただ自分の保身のために撃ったよ」
「一度も、言わなかったじゃないか。血をくれなんて」
オレの言葉に英雄が首をかしげた。ふっと唇が自嘲気味に笑う。
「寝ている君の前にナイフを持って立ったこともある。褒められたもんじゃない」
英雄の顔はなんだか泣きそうだった。
「でも、ある日…君は覚えちゃいないだろう、それくらい些細な日常だった。君が笑ったそのむこうに、幸せな未来が見えた気がした。それは明るくて、真っ白で…僕がもう持っていないもので…だから、決めた」
このまま死のう、と言いながら、英雄は自分の胸を押さえた。
「誰にも、なにも知られないまま死ぬのは嫌だった。誰かに覚えていて欲しいと、そう思って」
『そこで、見ていて』
「君がいるから胸を張れた。精一杯の見栄で、ありったけの勇気をかき集めてここまで来たんだ」
英雄は静かに笑った。
「僕がすべきことはほとんど出来た。あとは墓場に行くだけだ。なのに」
英雄はそこで言葉を止めた。ビルの隙間風が泣き声のような音を立てる。
朝陽の柔らかな光が、初めて顔を上げた英雄の表情をやわらかく照らした。
英雄は、笑っていた。すごく優しい笑顔だった。その頬に涙が一滴滑り落ちた。
「なのに今は――――――――――――君と生きたい」
『タスケテ』
初めて、英雄の心が聞こえた気がした。
英雄はいつだってオレに助けを求めていたのに。
オレが、気づかなかっただけだ。
英雄は唇を噛み締めて下を向いた。閉じた瞼から涙があふれる。
その姿を、綺麗だと思った。
「英雄…」
オレの声に英雄が反応する。自分でも驚くぐらいの落ち着いた声だ。
だって、責める気なんかない。
全然ない。
オレはいつだって英雄の力になりたいと思ってきた。
英雄が勇気を奮い立たせて立つ、その支えになれていたのだとしたら、それは凄く嬉しいことだった。
それに。
嘘を吐くのが英雄なら、それを赦すのはオレの役目だ。
今までも。
これからも。
変わることなんかない。
英雄のコートが風になびいた。
「帰ろう、オレ達の家に」
手を差し伸べると、英雄は泣きそうな表情をしたまま、その手を取った。
第31話 END