目が覚めると、英雄がいなかった。
慌てて起き上がって下に降りる。居間にいる英雄はいつもと変わらない様子で、コーヒーを飲み新聞を読んでいた。
「おはよう、クレバス。…といってももう夕方だけど。よく寝れた?」
「…うん」
階段を駆け下りたせいで息がうわずる。まだそこに英雄がいるのが信じられない。
英雄がそれを見て苦笑した。
「どこにも行かないよ。できればあまり気遣わずにいつもどおりにしてほしいな」
「ああ」
髪をくしゃりとかきあげた。
気持ちがまるで落ち着かない。そわそわする。
「なんか食う?」
気を取り直して聞くと、英雄が微笑んだ。
「そうだね。簡単になにか食べたい」
「わかった」
そう言ってキッチンにむかう。
英雄は、本当にいつもどおりに見えた。
苦しく、ないんだろうか。でもそう思うのも変な話かもしれない。
オレと出会った時からずっと、英雄は病をおして動いていたのだから。
ホウレン草のキッシュでも作ろうかと野菜に手を伸ばす。包丁を手に、刻み始めたとたんに刃を滑らせた。わずかに切れた左手の人差し指の腹からぷくりと血がふくれる。吸い込まれるようにそれを凝視した。
――――手術をすれば助かる。だが、血が足りない――――
――――適合者は、君だ、クレバス――――
セレンの声が蘇る。
オレの血でいいなら、使ってくれて構わない。でも、英雄はそれじゃ嫌なんだろう?そう英雄が選択したなら、オレはそれを守りたかった。だったらどうしようもないじゃないか…!
手術をすれば助かるってことは、しなけりゃ助からないってことだ。
誰もなにも言わない。オレは怖くて聞けない。
あと、どれぐらいの時間が残されてる…?
明確なリミットは、それでも確実に近づいているのに。
血が。英雄の決断が。
思考がぐるぐると輪を描く。
気づけば、英雄が後ろに立っていた。
後ろから手を回してオレの手をとる。オレよりずっと大きな手。
「手を切ったね。そういう時は心臓より上にやって。大丈夫、たいした傷じゃない」
今絆創膏を取ってくるからと英雄は言った。
「大丈夫だよ、クレバス」
なにが大丈夫なもんか。英雄は全然わかってない。
オレが手を切ったぐらいで泣くわけないだろ。
ちらつく希望が目障りだ。
届きそうで届かない、その距離が。
どうしてオレに真実を告げたのか、セレンを、恨んだ。
「それは少し筋違いじゃないのか?」
オレの抗議を受けたセレンの返答はそれだった。夜になってから”Green&Green ”に行こうと英雄が言い出して、ようやくゴミ捨てに出るために一人になったところを捕まえられた。むっとして睨むと、セレンは肩をすくめてみせる。
「失礼。では言い直そうか。知らないほうが良かった?」
「そりゃもちろん…」
「あの子に死ぬまで嘘をつけと?それで君はあの子を理解した気になってご満悦。その方が良かったのか。本当に?」
セレンの言葉にオレは答えられなかった。
あの場で、セレンがオレに伝えなければ。他の誰も言いはしなかったろう。英雄だって勿論言うわけがない。
オレはずっと知らないままだった。きっと、ただ英雄が不憫だと嘆いて、それで終わってた。
「胸が熱いだろう?冷えかけたマグマのようにどろどろとして、それでも熱を失わずにいつでもそこを焦がす。焼けるような痛みがじわじわと。それがあの子の抱え続けた葛藤だ」
胸に手をやる。セレンの言う通り、熱くて痛い。
これは英雄と同じ痛みなんだろうか。
「…ごめん、なさい」
「謝る必要はないさ」
残酷な事実を告げたことに変わりはないとセレンは言った。
「…セレンは、どうして」
英雄の力になるの、と聞いた。
「別にそういうわけじゃない」とセレンは言ったけど嘘だ。
そう言うと、セレンは答えを探すように夜空を仰いだ。
「前に言ったろう?あの子が生きようと醜くもがく。その姿が好きなんだ」
そう言って左側を重く顔を覆い隠した髪をかき上げた。潰れた左目に、縦に入る深く抉れた傷が見える。
「これも、そう。あの子が生きようとした証だ。消す気にはなれなくてね」
「英雄が…?」
そういえば前にもそう言ってた気がする。
「過去にあの子に処分命令が下ったことがある。手を下そうとして、逆襲されたよ」
セレンの唇がふと笑みを描いた。
「だから私はこの傷を消す気にはならない。これはあの子が生きようとした証だ」
そう言ってセレンが満足げに微笑んだ。店内にいる英雄を見やる。ダルジュとなにごとかを話して笑っている英雄は、重い荷物を降ろしたような、どこか吹っ切れた顔をしていた。
事実、降ろしたんだろう。
抱え続けた秘密を、嘘を。
オレはやっと本当の”英雄”を知ったんだ。
「あの子はこれで、ようやく自由だ」
セレンが言う。
三日月が、その笑みをかたどるように夜空を切り取って浮かんでいた。
第32話 END