DTH2 カサブランカ

第4話 「赤い月が嗤う」

 今日は泊まっていくといいとハンズスに促されたシンヤとガイナスはハンズス家の客間にいた。白い壁に淡いイエローのシーツでメイキングされたベッドが2つ。本棚にはハンズスのものであろう医学書がぎっしり詰まっている。オレンジを帯びた乳白色のランプの色がやわらかに室内を照らす。マージらしい掃除の行き届いた部屋に、アリソンのものらしい布製の人形のオモチャが落ちていた。。
「どーすんの、これから」
 ベッドに身を投げ出しながらガイナスは言った。
「どうするも何も」
 シンヤは不機嫌そうに首筋をかいた。大人たちから離れたせいか表情が憮然としている。素のシンヤに戻ったようだった。
「ほんの顔見せに来ただけじゃん?僕ら。まさかあんなとこにかちあうなんて思わなかったけどさー」
 どうしよっか、とガイナスは呟いた。
「お前はどうしたいんだ?」
 シンヤが質問で返した。
「ズルイ!僕が聞いてんのに!」
 身を起こして抗議するガイナスを、シンヤはただ見返す。黒い瞳に隠された感情をガイナスは図りかねた。
「セレンのことが気になるんじゃないのか?」
「あんなの別に心配じゃないよぅ。それにシンヤはどうなのさ」
 ガイナスが枕を抱きながら不服そうに口をとがらせる。
「なにがだ」
「英雄のこと」
 英雄の名前が出た途端にシンヤの表情が歪んだ。
「今、どう思ってるのさ」
「…別に」
 目をそらしながらシンヤは答えた。
 昔英雄を憎んでいたのは、他に怒りのやり場がなかったからだ。それを省みることが出来るほどにシンヤは成長していた。けれど、それで心に残るわだかたまりが溶けるはずもない。頭ではわかる。母と自分が巻き込まれたのは英雄のせいではない。けれど、感情がついていかない。英雄が死を受け入れたことで、その葛藤から抜け出せると思っていたのに。
 英雄は生きていた。
 かつてと同じ、銃を携えた姿のまま。
 レストランで見た英雄の姿は、幾度となくシンヤと対峙した彼を彷彿とさせた。
 思い出すだけで胸がざわつく。
 英雄、あんたはまた新しい『オレ』を作るのか。
 シンヤは胸を押さえた。
 そこに黒く深い穴が開いているような気がした。
 

 カトレシアを家に送ってから、ダルジュはG&Gに向かった。
 閉まったままの店を見てセレンがいないことを悟ると、ため息をつく。
 気まぐれなセレンにしては長く続いた趣味だったと、看板を見上げた。

 ”Green&Green”

 童謡として名高いこの歌を、どうしてセレンが店名に選んだのかついぞ聞くことはなかった。ただ単にゴロが良かったというだけかもしれない。セレンならそう言いそうだ。
 店の中に入る。
 戻ってくるわけがないと知りながら、ダルジュはセレンの部屋のドアを習慣でノックした。
 返事がないままノブを捻る。
 コンクリートむきだしの壁に間接照明、メタリックなパイプベッドや机が置かれているセレンの部屋。
 驚くくらい物が少なかった。必要最低限のものだけが、綺麗にまとめられている。シンプルが過ぎるような部屋で、ダルジュはまたため息をついた。
 かつては英雄もダルジュもそうだった。家は拠点にすぎない。帰る場所じゃない。
 だが、英雄もダルジュもそれぞれの居場所を見つけた。
「ここもあんたの家じゃなかったってことかよ…」
 ダルジュが呟く。
 見上げた窓には夜空に輝く満月が不吉な赤みを帯びていた。
 
 
 赤みを帯びた丸い月はセレンを見下ろしているようだった。小首をかしげて月をみやったセレンがワイングラスを傾ける。NYにいくつかあるセレンの拠点のひとつ。高層マンションの一室にあるこの場所は、街の眺めも良くそれなりに気に入っていた。
 月が赤いと人が死ぬ、という伝承がセレンの故郷にあった。迷信極まりないとセレンは思っている。事実、内戦と内乱で疲弊し果てたセレンの故郷では、月などに関わらず人は死んでいった。
 道端に無造作に積まれていく屍。父も母もそこに加わった。
 そこに尊厳も信条もありはしない。ただ、死体は積まれていった。国中の至るところにそれはあり、見るたびに少年であったセレンの感覚は磨り減った。感覚を麻痺させなければ、すぐそこにある狂気の扉が開くに違いない。
 加わりたくなければ強くなるしかない。単純明快な解決方法だった。
 生きるために他人に干渉しない。
 それは今も変わらぬセレンの処世術であると同時に信条でもあった。
 そうでなければこの手を握る小さな弟すら守れはしないと少年のセレンは思ったのだ。
 笑ってしまう、結局その守るはずの小さな手すら自分は手放してしまった。
 セレンは自嘲気味に笑って自分の手を見た。形の良い長い指が月光に照らされる。
 自分以外はどうでもいい。それは今も変わらない。
 英雄の生き方に口を出す気もなかった。
 それでも、どうしてだろう。
 英雄がクレバスを手にかけないと決めた時だった。
『いろいろ気にかけてくれたのに、ごめん』
 そう言って英雄が笑った。穏やかな笑顔だった。
 その笑顔がひどく気に障った。
 セレンの知る死者の誰も、そんな表情はしなかった。ある者は悲哀を、またある者は無念を刻み怨嗟を絡ませながら死んでいく。それが死だ。穏やかな死などあるはずもない。
 無か有か、二者択一の世界でセレンは生きてきた。
 目の前にチャンスがある、それを自ら手放すなど愚かなことだと、そう思っていた。
 昔、似た顔をした英雄の顔を見たことがある。
 実験が繰り返され廃棄寸前の英雄に、処分決定を告げた時だ。白い壁の実験室、呆然と座り込む少年であった英雄にセレンは言った。
『お前の処分が決まった』
 淡々と告げるセレンの声を聞いた英雄は疲れたように微笑んだ。
『良かった…』
 虚ろでどこも映そうとしない英雄の瞳。疲れ果てた体が安息を求めていた。
『次、生まれ変わったら幸せだといいな』
 セレンは英雄の肩を掴んで瞳を覗き込んだ。
『次なんてない』
 英雄の瞳が初めて自分を映した。
 黒い吸い込まれるような瞳が綺麗だと、そう思った。
『人は生まれ変わりはしない。心臓が止まれば死ぬ。次はない』
 少年の淡い希望のひとつひとつを砕いていく。英雄の表情が苦痛に歪んでも、セレンは目をそらさなかった。
『お前の死体は焼かれもしない。野良犬に喰われて、それで終わりだ』
『嘘だ…』
 英雄の瞳が揺れる。必死になにかを繋ぎとめていた。
 心の拠り所が音を立てて崩れていく。
 夢を見ることすら、セレンは許す気がなかった。
『本当だ』
 セレンは畳み掛けた。
『お前の人生に意味なんかない。ゴミと同じだ』
 絶望に触れた英雄が、傍にあった記録用のボールペンを掴んだ。力の限りにセレンの顔に突き立てる。
『嘘だあああ!』
 傷は額から入り、瞳を潰し、頬の中ほどまでに至った。
 セレンの血の感触に英雄は硬直した。自分の血が暖かいと、セレンは思った。
『なかなかやるじゃないか』
 そう言って身を起こす。マジックミラーに向かって、この様子を見ているであろう研究者達に告げた。
『それなりに見所はあるようだぞ。私がもらおう』
 そして英雄は暗殺者への道を歩むことになる。
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